向島
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)隅田川《すみだがわ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎年|堤《つつみ》の
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 隅田川《すみだがわ》の水はいよいよ濁りいよいよ悪臭をさえ放つようになってしまったので、その後わたくしは一度も河船には乗らないようになったが、思い返すとこの河水も明治大正の頃には奇麗《きれい》であった。
 その頃、両国《りょうごく》の川下《かわしも》には葭簀張《よしずばり》の水練場《すいれんば》が四、五軒も並んでいて、夕方近くには柳橋《やなぎばし》あたりの芸者が泳ぎに来たくらいで、かなり賑《にぎや》かなものであった。思い返すと四、五十年もむかしの事で、わたくしもこの辺の水練場で始めて泳ぎを教えられたのであった。世間ではまだ鎌倉あたりへ別荘を建てて子弟の遊場をつくるような風習がなかった。尋常中学へ這入《はい》って一、二年過ぎた頃かと思う。季節が少し寒くなりかかると、泳げないから浅草橋あたりまで行って釣舟屋の舟を借り、両国から向嶋《むこうじま》、永代《えいたい》から品川の砲台あたりまで漕ぎ廻ったが、やがて二、
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