タ界隈の鳥瞰図《ちょらかんず》を楽《たのし》もうとすれば、この天下堂の梯子段《はしごだん》を上《あが》るのが一番|軽便《けいべん》な手段である。茲《ここ》まで高く上《あが》って見ると、東京の市街も下にいて見るほどに汚らしくはない。十月頃の晴れた空の下《した》に一望|尽《つく》る処なき瓦屋根の海を見れば、やたらに突立っている電柱の丸太の浅間しさに呆《あき》れながら、とにかく東京は大きな都会であるという事を感じ得るのである。
人家の屋根の上をば山手線《やまのてせん》の電車が通る。それを越して霞《かすみ》ヶ|関《せき》、日比谷《ひびや》、丸《まる》の内《うち》を見晴す景色と、芝公園《しばこうえん》の森に対して品川湾《しながわわん》の一部と、また眼の下なる汐留《しおどめ》の堀割《ほりわり》から引続いて、お浜御殿《はまごてん》の深い木立《こだち》と城門の白壁を望む景色とは、季節や時間の工合《ぐあい》によっては、随分見飽きないほどに美しい事がある。
遠くの眺望から眼を転じて、直ぐ真下《まっした》の街を見下《みおろ》すと、銀座の表通りと並行して、幾筋かの裏町は高さの揃った屋根と屋根との間を真直に貫き走っている。どの家にも必ず付いている物干台《ものほしだい》が、小《ちいさ》な菓子折でも並べたように見え、干してある赤い布《きれ》や並べた鉢物の緑《みど》りが、光線の軟《やわらか》な薄曇の昼過ぎなどには、汚れた屋根と壁との間に驚くほど鮮かな色彩を輝かす。物干台から家《うち》の中に這入《はい》るべき窓の障子《しょうじ》が開《あ》いている折には、自分は自由に二階の座敷では人が何をしているかを見透《みすか》す。女が肩肌抜《かたはだぬ》ぎで化粧をしている様やら、狭い勝手口の溝板《どぶいた》の上で行水《ぎょうずい》を使っているさままでを、すっかり見下してしまう事がある。尤《もっと》も日本の女が外から見える処で行水をつかうのは、『|阿菊さん《マダムクリザンテエム》』の著者を驚喜せしめた大事件であるが、これはわざわざ天下堂の屋根裏に登らずとも、自分は山の手の垣根道で度々|出遇《であ》ってびっくりしているのである。この事を進めていえば、これまで種々なる方面の人から論じ出された日本の家屋と国民性の問題を繰返すに過ぎまい。
われわれの生活は遠からず西洋のように、殊に亜米利加《アメリカ》の都会のように変化するものたる事は誰《た》が眼にも直ちに想像される事である。然らばこの問題を逆にして試《こころみ》に東京の外観が遠からずして全く改革された暁《あかつき》には、如何なる方面、如何なる隠れた処に、旧日本の旧態が残されるかを想像して見るのも、皮肉な観察者には興味のないことではあるまい。実例は帝国劇場の建築だけが純西洋風に出来上りながら、いつの間にかその大理石の柱のかげには旧芝居の名《なご》残りなる簪屋《かんざしや》だの飲食店などが発生繁殖して、遂に厳粛なる劇場の体面を保たせないようにしてしまった。銀座の商店の改良と銀座の街の敷石とは、将来如何なる進化の道によって、浴衣《ゆかた》に兵児帯《へこおび》をしめた夕凉《ゆうすずみ》の人の姿と、唐傘《からかさ》に高足駄《たかあしだ》を穿《は》いた通行人との調和を取るに至るであろうか。交詢社《こうじゅんしゃ》の広間に行くと、希臘風《ギリシヤふう》の人物を描いた「|神の森《ポアサクレエ》」の壁画の下《もと》に、五《いつ》ツ紋《もん》の紳士や替《かわ》り地《じ》のフロックコオトを着た紳士が幾組となく対座して、囲碁仙集《いごせんしゅう》をやっている。高い金箔《きんぱく》の天井にパチリパチリと響き渡る碁石の音は、廊下を隔てた向うの室《へや》から聞えて来る玉突のキュウの音に交《まじ》わる。初めてこの光景に接した時自分は無論いうべからざる奇異なる感に打たれた。そしてこの奇異なる感は、如何なる理由によって呼起されたかを深く考え味わねばならなかった。数寄《すき》を凝《こら》した純江戸式の料理屋の小座敷には、活版屋の仕事場と同じように白い笠のついた電燈が天井からぶらさがっているばかりか遂には電気仕掛けの扇風器までが輸入された。要するに現代の生活においては凡《すべ》ての固有純粋なるものは、東西の差別なく、互に噛み合い壊し合いしているのである。異人種間の混血児は特別なる注意の下に養育されない限り、その性情は概して両人種の欠点のみを遺伝するものだというが、日本現代の生活は正《まさ》しくかくの如きものであろう。
銀座界隈はいうまでもなく日本中で最もハイカラな場所であるが、しかしここに一層皮肉な贅沢屋があって、もし西洋そのままの西洋料理を味おうとしたなら銀座界隈の如何なる西洋料理屋もその目的には不適当なる事を発見するであろう。銀座の文明と横浜のホテルとの間には
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング