煢]へぬ快感を覚え、陸地の世界とは全く絶縁してしまつたやうな慰安と寂寞とを感ずる。
この慰安と寂寞を味《あぢは》はんが為めに、自分は目的なく横浜の埠頭を離れて海に漂つたのである。夏の大空に輝く強い日光、奇怪なる雲の峯、洋々たる波浪、悲壮なる帆影《はんえい》、凡《すべ》て自由にして広大なる此等の海洋的風景は、如何に自分の心を快活にしてくれたであらう。あゝ此の二三年間、自分はあまりに烈しく、社会的並びに芸術的の圧迫に苦悩し過ぎた。人間が誰でも持つて居べき純朴温厚なる本来の感情さへ、自分は日に日に消滅して行くやうな情ない心持がしてゐた。自分は衰弱した身心の健康を、力ある海洋の空気によつて恢復させ、最少《もすこ》し軟かな暖《あたゝか》な感情を以て、自分と自分の周囲を顧ることが出来るやうになりたいと思つた。
内地に於ける名所古蹟の遊覧には歴史的賞讃の義務を強ひられる虞《おそれ》がある。海洋には純然たる色彩の美があるばかりである。海は飽くまで自由である。自由にして大きな海を見れば、陸上の都会に於て、自分の心を激昂させた凡ての論争も、実に小さなつまらないものとなつて、水平線の下に沈み消えてしまふではないか。新しい劇場や新しい橋梁の建築に対して、或は各処の劇場に演じられる突飛なる新興芸術の試みに対して経験した憤怒の如きは、全く我ながら馬鹿らしい事だと心付く。海洋に於ける大きな自然の美は陸上のつまらない小さな芸術の論争などを顧みさせる余裕を許さない。
自分は海に沈むすさまじい夕陽の色に酔つた。岬の岩角を噛む恐しい波の牙を見た。緑色した島の上に立つ真白な灯台を見た。山の裾に休息してゐる哀れな漁村の屋根を見た。暗夜に舷《ふなばた》を打つ不知火《しらぬひ》の光を見た。水夫が叩く悲しい夜半《やはん》の鐘の音《ね》を聞いた。異《ちが》つた人種の旅客を見た。自分の祖国に対するそれ等の人々の批評をも聞いた。港に這入《はい》つては活気ある波止場の生活を見た。新しいさま/″\の物音を聞いた。いろ/\な船といろ/\な国の旗を見た。そして自分の見たり聞いたりした其れ等の物は悉《こと/″\》く自分の心に向つて、この世の生存のいかに愉快であるかを歌つて聞かせるものゝやうに思はれた。夜半人の寝静《ねしづま》つた時、唯一人《ただひとり》舷に倚《よ》つて水を凝視すれば「死」はいつも自分の目前《めのまへ》に広が
前へ
次へ
全11ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング