行くとか云ふ身許《みもと》の知れぬ女とが声を合《あは》せて歌ふのを聞付けた。滑稽な軽佻《けいてう》な調子から、それはロンドンの東街《ひがしまち》の寄席《よせ》などで歌ふ流行唄《はやりうた》らしい。音楽としては無論何の価値もないものだけに、聞き澄《すま》して居るとイギリスの労働者が海を越して遠く熱帯の地に出稼ぎに行く心持が、汚《きたな》い三等室や薄暗い甲板の有様と釣合《つりあ》つて非常に能《よ》く表現されて居る。
 幸福な国民ではないか。イギリスの文明は下層の労働者にまで淋しい旅愁を託《たく》するに適すべき一種の音楽を与へた。明治の文明。それは吾々《われ/\》に限り知られぬ煩悶を誘《いざな》つたばかりで、それを訴ふべく託すべき何物をも与へなかつた。吾等が心情は已に古物《こぶつ》となつた封建時代の音楽に取り縋《す》がらうには余りに遠く掛け離れてしまつたし、と云つて逸散《いつさん》に欧洲の音楽に赴《おもむ》かんとすれば、吾等は如何なる偏頗《へんぱ》の愛好心を以てするも猶《なほ》風土人情の止《や》みがたき差別を感ずるであらう。
 吾等は哀れむべき国民である。国土を失つたポーランドの民よ。自由を持たぬロシヤ人よ。諸君は猶《なほ》シヨーパンとチヤイコウスキーを有してゐるではないか。
 夜《よる》の進むにつれて水は黒く輝き空は次第に不思議な光沢を帯びて、恐ろしく底深く見え、星の光の明《あかる》く数多い事は又驚くばかりである。神秘なる北アフリカに近い地中海の空よ。イギリスの工夫《こうふ》が歌ふ唄《うた》は物哀れに此の神秘の空に消えて行く。
 歌へ。歌へ。幸福なる彼等。
 自分は星斗《せいと》賑《にぎは》しき空をば遠く仰ぎながら、心の中《うち》には今日よりして四十幾日、長い/\船路《ふなぢ》の果に横《よこた》はる恐《おそろ》しい島嶼《しま》の事を思浮《おもひうか》べた。自分はどうしてむざ/\巴里《パリー》を去ることが出来たのであらう。



底本:「日本の名随筆56 海」作品社
   1987(昭和62)年6月25日第1刷発行
   1999(平成11)年8月25日第10刷発行
底本の親本:「荷風全集 第三巻」岩波書店
   1963(昭和38)年8月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング