黄昏の地中海
永井荷風

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)葡萄牙《ポルトガール》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|哩《マイル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はで[#「はで」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)チラ/\
−−

 ガスコンの海湾を越え葡萄牙《ポルトガール》の海岸に沿うて東南へと、やがて西班牙《スペイノ》の岸について南にマロツクの陸地と真白なタンヂヱーの人家を望み、北には三角形なすジブラルタルの岩山《いはやま》を見ながら地中海に進み入る時、自分はどうかして自分の乗つて居る此の船が、何かの災難で、破《こは》れるか沈むかしてくれゝばよいと祈つた。
 さすれば自分は救助船に載せられて、北へも南へも僅か三|哩《マイル》ほどしかない、手に取るやうに見える向《むかう》の岸に上《あが》る事が出来やう。心にもなく日本に帰る道すがら自分は今一度ヨーロツパの土を踏む事が出来やう。ヨーロツパも文明の中心からは遠《とほざか》つて男ははで[#「はで」に傍点]な着物きて、夜《よる》の窓下にセレナドを弾き、女は薔薇《ばら》の花を黒髪にさしあらはなる半身をマンチラに蔽ひ、夜を明して舞《ま》ひ戯《たはむ》るゝ遊楽の西班牙を見る事が出来るであらう。
 今、舷《ふなばた》から手にとるやうに望まれる向《むかう》の山――日に照らされて土は乾き、樹木は少《すくな》く、黄ばんだ草のみに蔽はれた山間に白い壁塗りの人家がチラ/\見える、――あの山一ツ越えれば其処は乃《すなは》ちミユツセが歌つたアンダルジヤぢやないか。ビゼーが不朽の音楽を作つた「カルメン」の故郷ぢやないか。
 目もくらむ衣裳の色彩と熱情湧きほとばしる音楽を愛し、風の吹くまゝ気の行くまゝの恋を思ふ人は、誰れか心をドンジヤンが祖国イスパニヤに馳《は》せぬものがあらう。
 熱い日の照るこの国には、恋とは男と女の入り乱れて戯《たはむ》れる事のみを意味して、北の人の云ふやうに、道徳だの、結婚だの、家庭だのと、そんな興のさめる事とは何の関係もないのだ。祭礼《まつり》の夜《よ》に契《ちぎり》を結んだ女の色香に飽きたならば、直ちに午過《ひるすぎ》の市場《フエリヤ》に行《ゆ》きて他《た》の女の手を取り給へ。若し、其の女が人の妻ならば夜の窓にひそんで一挺のマンドリンを弾じつゝ、Deh, vieni alla finestra, O mio tesoro!(あはれ。窓にぞ来よ、わが君よ。モザルトのオペラドンジヤンの歌)と誘《いざな》ひ給へ。して、事|露《あらは》れなば一振《ひとふり》の刃《やいば》に血を見るばかり。情《じやう》の火花のぱつと燃えては消え失せる一刹那《いつせつな》の夢こそ乃《すなは》ち熱き此の国の人生の凡《すべ》てゞあらう。鈴のついた小鼓に、打つ手拍子踏む足拍子の音烈しく、アンダルジヤの少女《をとめ》が両手の指にカスタニエツト打鳴らし、五色《ごしき》の染色《そめいろ》きらめく裾《すそ》を蹴立てゝ乱れ舞ふ此の国特種の音楽のすさまじさ。嵐の如くいよ/\酣《たけなは》にしていよ/\急激に、聞く人見る人、目も眩《くら》み心も覆《くつがへ》る楽《がく》と舞《まひ》、忽然として止む時はさながら美しき宝石の、砕け、飛び、散つたのを見る時の心地《こゝち》に等しく、初めてあつ[#「あつ」に傍点]と疲れの吐息《といき》を漏《もら》すばかり。この国の人生はこの音楽の其の通りであらう……
 然るを船は悠然として、吾《わ》が実現すべからざる欲望には何の関係もなく、左右の舷《ふなべり》に海峡の水を蹴つて、遠く沖合に進み出た。突出《つきで》たジブラルタルの巌壁は、其の背面に落ちる折《をり》からの夕日の光で、燃える焔の中に屹立《きつりつ》してゐる。其の正面、一帯の水を隔《へだ》てたタンヂヱーの人家と低く延長したマロツクの山とは薔薇色から紫色にと変つて行つた。
 然し、徐々《おもむろ》に黄昏《たそがれ》の光の消え行く頃には其の山も其の岩も皆遠く西の方《かた》水平線の下に沈んで了ひ、食事を終つて再び甲板の欄干に身を倚《よ》せた時、自分は茫々たる大海原の水の色のみ大西洋とは驚く程|異《ちが》つた紺色を呈し、天鵞絨《びろうど》のやうに滑《なめらか》に輝いて居るのを認めるばかりであつた。
 けれども、この水の色は、山よりも川よりも湖よりも、また更に云はれぬ優しい空想を惹起《ひきおこ》す。此の水の色を見詰めて居ると、太古の文芸がこの水の漂《たゞよ》ふ岸辺から発生した歴史から、美しい女神《によしん》ベヌスが紫の波より産《うま》れ出《いで》たと伝ふ其れ等の神話までが、如何にも自然で、決して無理でないと首肯《うなづ》かれる
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング