よく知らない伊太利語だから記憶して居ないのも無理はない。トリスタンの幕開《まくあき》、檣《ほばしら》の上で船頭の歌ふ歌、此の方が猶《なほ》よく境遇に適して居やう。処が今度は歌の文句ばかりで、唱ふべき必要の節が怪しくなつて居る。いか程歌ひたいと思つても、ヨーロツパの歌は唄《うた》ひにくい。日本に生れた自分は自国の歌を唄ふより仕方がないのか。自分はこの場合の感情――フランスの恋と芸術とを後にして、単調な生活の果てには死のみが待つて居る東洋の端《はづ》れに旅して行く。其れ等の思ひを遺憾なく云ひ現《あらは》した日本語の歌があるかどうかと考へた。
然し此れは歌ひにくい西洋の歌に失望するよりも更に深い失望を感ぜねばならぬ。「おしよろ高島《たかしま》」と能《よ》く人が歌ふ。悲しくツていゝ節《ふし》だと賞《ほ》める。けれども旅と追分節《おひわけぶし》と云ふ事のみが僅な関係を持つて居るだけで、ギリシヤの神話を思出す様な地中海の夕暮に対する感情とは余りに不調和ではないか。「竹本《たけもと》」や「常磐津《ときはづ》」を初め凡《すべ》ての浄瑠璃《じやうるり》は立派に複雑な感激を現《あらは》して居るけれど、「音楽」から見れば歌曲と云はうよりは楽器を用ゐる朗読詩とも云ふべく、咄嗟《とつさ》の感情に訴へるには冷《ひやゝ》か過ぎる。「哥沢節《うたざはぶし》」は時代のちがつた花柳界《くわりうかい》の弱い喞《かこ》ちを伝へたに過ぎず、「謡曲《えうきよく》」は仏教的の悲哀を含むだけ古雅《こが》であるだけ二十世紀の汽船とは到底|相容《あひい》れざる処がある。あれは苫舟《とまぶね》で艫《ろ》の音を聞きながら遠くに墨絵のやうな松の岸辺を見る景色でなくてはならぬ。其他《そのた》には薩摩琵琶歌《さつまびはうた》だの漢詩|朗吟《らうぎん》なぞも存在しているが、此れも同じく色彩の極めて単純な日本特有の背景と一致した場合、初歩期の単調が、ある粗朴《そぼく》な悲哀の美感を催《もよほ》させるばかりである。
自分は全く絶望した。自分はいか程溢るゝ感激、乱るゝ情緒《じやうしよ》に悶《もだ》えても其れを発表すべく其れを訴ふべき音楽を持つて居ない国民であるのだ。かゝる国民かゝる人種が世界の他《た》にあるであらうか。
下の甲板から此の時|印度《インド》の殖民地へ出稼ぎに行《ゆ》くイギリスの鉄道工夫が二三人と、香港《ホンコン》へ行くとか云ふ身許《みもと》の知れぬ女とが声を合《あは》せて歌ふのを聞付けた。滑稽な軽佻《けいてう》な調子から、それはロンドンの東街《ひがしまち》の寄席《よせ》などで歌ふ流行唄《はやりうた》らしい。音楽としては無論何の価値もないものだけに、聞き澄《すま》して居るとイギリスの労働者が海を越して遠く熱帯の地に出稼ぎに行く心持が、汚《きたな》い三等室や薄暗い甲板の有様と釣合《つりあ》つて非常に能《よ》く表現されて居る。
幸福な国民ではないか。イギリスの文明は下層の労働者にまで淋しい旅愁を託《たく》するに適すべき一種の音楽を与へた。明治の文明。それは吾々《われ/\》に限り知られぬ煩悶を誘《いざな》つたばかりで、それを訴ふべく託すべき何物をも与へなかつた。吾等が心情は已に古物《こぶつ》となつた封建時代の音楽に取り縋《す》がらうには余りに遠く掛け離れてしまつたし、と云つて逸散《いつさん》に欧洲の音楽に赴《おもむ》かんとすれば、吾等は如何なる偏頗《へんぱ》の愛好心を以てするも猶《なほ》風土人情の止《や》みがたき差別を感ずるであらう。
吾等は哀れむべき国民である。国土を失つたポーランドの民よ。自由を持たぬロシヤ人よ。諸君は猶《なほ》シヨーパンとチヤイコウスキーを有してゐるではないか。
夜《よる》の進むにつれて水は黒く輝き空は次第に不思議な光沢を帯びて、恐ろしく底深く見え、星の光の明《あかる》く数多い事は又驚くばかりである。神秘なる北アフリカに近い地中海の空よ。イギリスの工夫《こうふ》が歌ふ唄《うた》は物哀れに此の神秘の空に消えて行く。
歌へ。歌へ。幸福なる彼等。
自分は星斗《せいと》賑《にぎは》しき空をば遠く仰ぎながら、心の中《うち》には今日よりして四十幾日、長い/\船路《ふなぢ》の果に横《よこた》はる恐《おそろ》しい島嶼《しま》の事を思浮《おもひうか》べた。自分はどうしてむざ/\巴里《パリー》を去ることが出来たのであらう。
底本:「日本の名随筆56 海」作品社
1987(昭和62)年6月25日第1刷発行
1999(平成11)年8月25日第10刷発行
底本の親本:「荷風全集 第三巻」岩波書店
1963(昭和38)年8月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月3日作成
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