届かぬ手抜《てぬか》りを見付出されては叱られて居られた。ですから、私が生れて第一に耳にしたものは、乃ち皺枯《しはが》れた父の口小言、第一に目にしたものは、何時も襷《たすき》を外した事のない母の姿で、無邪気な幼心に、父と云ふものは恐いもの、母と云ふものは痛《いたま》しいものだと云ふ考へが、何より先に浸渡《しみわた》りました。
私は殆ど父の膝に抱《いだ》かれた事がない。時々は優しい声を作つて私の名を呼ばれた事もあつたですが、猫の様にいぢけて了つた私は恐くて近《ちかづ》き得ないのです。殊に父の食事は前《ぜん》に申す通り、到底子供の口になぞ入れられる種類のものではないので、一度も膳を並べて箸を取つた事もなく、幼年から少年と時の経つに従つて、私は自然と父に対する親愛の情が疎くなるのみか、其の反対に、父なるものは暴悪|無道《ぶだう》な鬼の様に思はれ、其れにつれて、母上は無論私の感ずる程では無かつたかも知れないが、兎《と》に角《かく》、父が憎くさの私の眼だけには、世の中に、何一つ慰みもなく、楽みもなく暮らして居られる様に見へた。
此う云ふ境遇から此う云ふ先入の感想を得て、私は軈《やが》て中学校に進み、円満な家庭のさまや無邪気な子供の生活を描《うつ》した英語の読本、其れから当時の雑誌や何やらを読んで行くと愛《ラブ》だとか家庭《ホーム》だとか云ふ文字《もんじ》の多く見られる西洋の思想が、実に激しく私の心を突いたです。同時に我が父の口にせられる孔子の教《おしへ》だの武士道だのと云ふものは、人生幸福の敵である、と云ふ極端な反抗の精神が、何時とは無しに堅く胸中に基礎を築き上げて了つた。で、年と共に、鳥渡《ちよつと》した日常の談話にも父とは意見が合はなくなりましたから、中学を出て、高等の専門学校に入学すると共に、私は親元を去つて寄宿舎に這入《はい》り、折々は母を訪問して帰る道すがら、自分は三年の後卒業したなら、父と別れて自分一個の新家庭を造り、母を請じて愉快に食事をして見やう……とよく其様《そんな》事を考へて居ましたが、あゝ人生夢の如しで、私の卒業する年の冬、母上は黄泉《あのよ》に行かれた。
何でも夜半《よなか》近くから、急に大雪が降出した晩の事で、父は近頃買入れた松の盆栽をば、庭の敷石に出して置いたので、この雪の一夜を其の儘にして置いたなら雪の重さで枝振りが悪くなるからと、下女か誰か
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