るんだが……此の後も一生外国に居たいと云つて居る。』
騒然たる一座の雑談は忽《たちま》ち此の奇な人物の噂さに集中した。頭取は流石《さすが》老人だけに当らず触らず。
『鳥渡《ちよつと》人好きはよくないかも知らんが極く無口な柔順《おとな》しい男で、長く居るだけ米国の事情に通じて居るから、事務上には必要の人才《じんさい》だ。』と穏な批評を加へて、酒杯に舌を潤はした。
『然《しか》し、余り交際を知らん男ぢや無いですか。何程《いくら》、酒が嫌ひでも、飯が嫌ひでも、日本人の好誼《よしみ》として、殊に今夜の如きは一月一日、元旦のお正月だ!。』と最初の酔つた声が不平らしく非難したが、すると、此《これ》に応じて、片隅から、今までは口を出さなかつた新しい声が、徐《おもむろ》に、
『然《しか》しまア、さう攻撃せずと許して置き給へ。人には意外な事情があるもんだ、僕もつい此間まで知らなかつたのだが、先生の日本酒嫌ひ、日本飯嫌ひには深い理由があるんだ。』
『はア、さうか。』
『僕はそれ以来、大《おほひ》に同情を表して居る。』
『一体、どう云ふ訳だ?』
『正月の話には、ちと適当しないやうだが……。』と彼は前置して、
『つい此間、クリスマスの二三日|前《ぜん》の晩の事さ。西洋人に贈《や》る進物の見立をして貰ふには、長く居る金田君に限ると思つてね、彼方《あツチ》此方《こツち》とブロードウヱーの商店を案内して貰つた帰り、夜も晩くなるし、腹も空《す》いたから、僕は何の気なしに、近所の支那料理屋にでも行かうかと勧めると、先生は支那料理はいゝが、米の飯を見るのが厭だから……と云ふので、其《そ》のまゝ先生の案内で、何とか云ふ仏蘭西《フランス》の料理屋に這入《はい》つたのさ。葡萄酒が好きだね……先生は。忽ちコツプに二三杯干して了ふと、少し酔つたと見えて、ぢツと目を据ゑて、半分ほど飲残した真赤な葡萄酒へ電気燈の光を反射する色を見詰めて居たが、突然、
『君は両親とも御健在ですか。』と訊く。妙な男だと思ひながらも、
『えゝ、丈夫ですよ。』と答へると、俯向《うつむ》いて、
『私は……父はまだ達者ですが、母は私が学校を卒業する少し前に死亡《なくな》りました。』
僕は返事に困つて、飲みたくもない水を飲みながら其の場を紛らした。
『君の父親《フアーザー》は、酒を飲まれるのですか?』少時《しばらく》して又|訊出《きゝだ》す
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング