的の姿勢で活躍しているさまが描《えが》かれてある。この大きい絵看板を蔽《おお》う屋根形の軒には、花車《だし》につけるような造り花が美しく飾りつけてあった。
長吉はいかほど暖い日和《ひより》でも歩いているとさすがにまだ立春になったばかりの事とて暫《しばら》くの間寒い風をよける処をと思い出した矢先《やさき》、芝居の絵看板を見て、そのまま狭い立見《たちみ》の戸口へと進み寄った。内《うち》へ這入《はい》ると足場の悪い梯子段《はしごだん》が立っていて、その中《なか》ほどから曲るあたりはもう薄暗く、臭い生暖《なまあたたか》い人込《ひとごみ》の温気《うんき》がなお更暗い上の方から吹き下りて来る。頻《しきり》に役者の名を呼ぶ掛声《かけごえ》が聞える。それを聞くと長吉は都会育ちの観劇者ばかりが経験する特種《とくしゅ》の快感と特種の熱情とを覚えた。梯子段の二、三段を一躍《ひとと》びに駈上《かけあが》って人込みの中に割込むと、床板《ゆかいた》の斜《ななめ》になった低い屋根裏の大向《おおむこう》は大きな船の底へでも下りたような心持。後《うしろ》の隅々《すみずみ》についている瓦斯《ガス》の裸火《はだかび》の光は一ぱいに詰《つま》っている見物人の頭に遮《さえぎ》られて非常に暗く、狭苦しいので、猿のように人のつかまっている前側の鉄棒から、向うに見える劇場の内部は天井ばかりがいかにも広々と見え、舞台は色づき濁った空気のためにかえって小さく甚《はなはだ》遠く見えた。舞台はチョンと打った拍子木の音に今丁度廻って止《とま》った処である。極めて一直線な石垣を見せた台の下に汚れた水色の布が敷いてあって、後《うしろ》を限る書割《かきわり》には小《ちいさ》く大名屋敷《だいみょうやしき》の練塀《ねりべい》を描《えが》き、その上の空一面をば無理にも夜だと思わせるように隙間《すきま》もなく真黒《まっくろ》に塗りたててある。長吉は観劇に対するこれまでの経験で「夜」と「川端《かわばた》」という事から、きっと殺《ころ》し場《ば》に違いないと幼い好奇心から丈伸《せの》びをして首を伸《のば》すと、果《はた》せるかな、絶えざる低い大太鼓《おおだいこ》の音に例の如く板をバタバタ叩《たた》く音が聞えて、左手の辻番小屋の蔭《かげ》から仲間《ちゅうげん》と蓙《ござ》を抱えた女とが大きな声で争いながら出て来る。見物人が笑った。舞台の人物は落したものを捜《さが》す体《てい》で何かを取り上げると、突然前とは全く違った態度になって、極めて明瞭に浄瑠璃外題《じょうるりげだい》「梅柳中宵月《うめやなぎなかもよいづき》」、勤めまする役人……と読みはじめる。それを待構えて彼方《かなた》此方《こなた》から見物人が声をかけた。再び軽い拍子木の音を合図に、黒衣《くろご》の男が右手の隅に立てた書割の一部を引取ると裃《かみしも》を着た浄瑠璃語《じょうるりかたり》三人、三味線弾《しゃみせんひき》二人が、窮屈そうに狭い台の上に並んでいて、直《す》ぐに弾出《ひきだ》す三味線からつづいて太夫《たゆう》が声を合《あわ》してかたり出した。長吉はこの種の音楽にはいつも興味を以て聞き馴《な》れているので、場内の何処《どこ》かで泣き出す赤児《あかご》の声とそれを叱咤《しった》する見物人の声に妨げられながら、しかも明《あきら》かに語る文句と三味線の手までを聴《き》き分ける。
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※[#歌記号、1−3−28]朧夜《おぼろよ》に星の影さへ二ツ三ツ、四ツか五ツか鐘の音《ね》も、もしや我身《わがみ》の追手《おって》かと……
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またしても軽いバタバタが聞えて夢中になって声をかける見物人のみならず場中《じょうちゅう》一体が気色立《けしきだ》つ。それも道理だ。赤い襦袢《じゅばん》の上に紫繻子《むらさきじゅす》の幅広い襟《えり》をつけた座敷着の遊女が、冠《かぶ》る手拭《てぬぐい》に顔をかくして、前かがまりに花道《はなみち》から駈出《かけだ》したのである。「見えねえ、前が高いッ。」「帽子をとれッ。」「馬鹿野郎。」なぞと怒鳴《どな》るものがある。
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※[#歌記号、1−3−28]落ちて行衛《ゆくえ》も白魚《しらうお》の、舟のかがりに網よりも、人目いとうて後先《あとさき》に……
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女に扮《ふん》した役者は花道の尽きるあたりまで出て後《うしろ》を見返りながら台詞《せりふ》を述べた。その後《あと》に唄《うた》がつづく。
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※[#歌記号、1−3−28]しばし彳《たたず》む上手《うわて》より梅見返《うめみがえ》りの舟の唄。※[#歌記号、1−3−28]忍ぶなら忍ぶなら闇《やみ》の夜は置かしやんせ、月に雲のさはりなく、辛気《しんき》待つ宵、十六夜《いざよい》の、内《うち》の首尾《しゅび》はエーよいとのよいとの。※[#歌記号、1−3−28]聞く辻占《つじうら》にいそいそと雲足早き雨空《あまぞら》も、思ひがけなく吹き晴れて見かはす月の顔と顔……
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見物がまた騒ぐ。真黒に塗りたてた空の書割の中央《まんなか》を大きく穿抜《くりぬ》いてある円《まる》い穴に灯《ひ》がついて、雲形《くもがた》の蔽《おお》いをば糸で引上げるのが此方《こなた》からでも能《よ》く見えた。余りに月が大きく明《あかる》いから、大名屋敷の塀の方が遠くて月の方がかえって非常に近く見える。しかし長吉は他の見物も同様少しも美しい幻想を破られなかった。それのみならず去年の夏の末、お糸を葭町《よしちょう》へ送るため、待合《まちあわ》した今戸《いまど》の橋から眺めた彼《あ》の大きな円《まる》い円い月を思起《おもいおこ》すと、もう舞台は舞台でなくなった。
着流し散髪《ざんぱつ》の男がいかにも思いやつれた風《ふう》で足許《あしもと》危《あやう》く歩み出る。女と摺《す》れちがいに顔を見合して、
「十六夜《いざよい》か。」
「清心《せいしん》さまか。」
女は男に縋《すが》って、「逢《あ》ひたかつたわいなア。」
見物人が「やア御両人《ごりょうにん》。」「よいしょ。やけます。」なぞと叫ぶ。笑う声。「静かにしろい。」と叱《しか》りつける熱情家もあった。
舞台は相《あい》愛する男女の入水《じゅすい》と共に廻って、女の方が白魚舟《しらうおぶね》の夜網《よあみ》にかかって助けられる処になる。再び元の舞台に返って、男も同じく死ぬ事が出来なくて石垣の上に這《は》い上《あが》る。遠くの騒ぎ唄、富貴《ふうき》の羨望《せんぼう》、生存の快楽、境遇の絶望、機会と運命、誘惑、殺人。波瀾《はらん》の上にも脚色の波瀾を極めて、遂に演劇の一幕《ひとまく》が終る。耳元近くから恐しい黄《きいろ》い声が、「変るよ――ウ」と叫び出した。見物人が出口の方へと崩《なだれ》を打って下《お》りかける。
長吉は外へ出ると急いで歩いた。あたりはまだ明《あかる》いけれどもう日は当っていない。ごたごたした千束町《せんぞくまち》の小売店《こうりみせ》の暖簾《のれん》や旗なぞが激しく飜《ひるがえ》っている。通りがかりに時間を見るため腰をかがめて覗《のぞ》いて見ると軒の低いそれらの家《うち》の奥は真暗《まっくら》であった。長吉は病後の夕風を恐れてますます歩みを早めたが、しかし山谷堀《さんやぼり》から今戸橋《いまどばし》の向《むこう》に開ける隅田川《すみだがわ》の景色を見ると、どうしても暫《しばら》く立止らずにはいられなくなった。河の面《おもて》は悲しく灰色に光っていて、冬の日の終りを急がす水蒸気は対岸の堤をおぼろに霞《かす》めている。荷船《にぶね》の帆の間をば鴎《かもめ》が幾羽となく飛び交《ちが》う。長吉はどんどん流れて行く河水《かわみず》をば何がなしに悲しいものだと思った。川向《かわむこう》の堤の上には一ツ二ツ灯《ひ》がつき出した。枯れた樹木、乾いた石垣、汚れた瓦《かわら》屋根、目に入《い》るものは尽《ことごと》く褪《あ》せた寒い色をしているので、芝居を出てから一瞬間とても消失《きえう》せない清心《せいしん》と十六夜《いざよい》の華美《はで》やかな姿の記憶が、羽子板《はごいた》の押絵《おしえ》のようにまた一段と際立《きわだ》って浮び出す。長吉は劇中の人物をば憎いほどに羨《うらや》んだ。いくら羨んでも到底及びもつかないわが身の上を悲しんだ。死んだ方がましだと思うだけ、一緒に死んでくれる人のない身の上を更に痛切に悲しく思った。
今戸橋を渡りかけた時、掌《てのひら》でぴしゃりと横面《よこつら》を張撲《はりなぐ》るような河風。思わず寒さに胴顫《どうぶる》いすると同時に長吉は咽喉《のど》の奥から、今までは記憶しているとも心付かずにいた浄瑠璃《じょうるり》の一節《いっせつ》がわれ知らずに流れ出るのに驚いた。
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※[#歌記号、1−3−28]今さらいふも愚痴《ぐち》なれど……
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と清元《きよもと》の一派が他流の模《も》すべからざる曲調《きょくちょう》の美麗を托した一節《いっせつ》である。長吉は無論|太夫《たゆう》さんが首と身体《からだ》を伸上《のびあが》らして唄ったほど上手に、かつまたそんな大きな声で唄ったのではない。咽喉から流れるままに口の中で低唱《ていしょう》したのであるが、それによって長吉はやみがたい心の苦痛が幾分か柔《やわら》げられるような心持がした。今更いうも愚痴なれど……ほんに思えば……岸より覗《のぞ》く青柳《あおやぎ》の……と思出《おもいだ》す節《ふし》の、ところどころを長吉は家《うち》の格子戸《こうしど》を開ける時まで繰返《くりかえ》し繰返し歩いた。
七
翌日《あくるひ》の午後《ひるすぎ》にまたもや宮戸座《みやとざ》の立見《たちみ》に出掛けた。長吉は恋の二人が手を取って嘆く美しい舞台から、昨日《きのう》始めて経験したいうべからざる悲哀の美感に酔《え》いたいと思ったのである。そればかりでなく黒ずんだ天井と壁《かべ》襖《ふすま》に囲まれた二階の室《へや》がいやに陰気臭くて、燈火《とうか》の多い、人の大勢集っている芝居の賑《にぎわ》いが、我慢の出来ぬほど恋しく思われてならなかったのである。長吉は失ったお糸の事以外に折々《おりおり》は唯《た》だ何という訳《わけ》もなく淋《さび》しい悲しい気がする。自分にもどういう訳だか少しも分らない。唯だ淋しい、唯だ悲しいのである。この寂寞《せきばく》この悲哀を慰めるために、長吉は定めがたい何物かを一刻一刻に激しく要求して止《や》まない。胸の底に潜《ひそ》んだ漠然たる苦痛を、誰と限らず優しい声で答えてくれる美しい女に訴えて見たくてならない。単にお糸一人の姿のみならず、往来で摺《す》れちがった見知らぬ女の姿が、島田の娘になったり、銀杏返《いちょうがえし》の芸者《げいしゃ》になったり、または丸髷《まるまげ》の女房姿になったりして夢の中に浮ぶ事さえあった。
長吉は二度見る同じ芝居の舞台をば初めてのように興味深く眺めた。それと同時に、今度は賑《にぎや》かな左右の桟敷《さじき》に対する観察をも決して閑却しなかった。世の中にはあんなに大勢女がいる。あんなに大勢女のいる中で、どうして自分は一人も自分を慰めてくれる相手に邂逅《めぐりあ》わないのであろう。誰れでもいい。自分に一言《ひとこと》やさしい語《ことば》をかけてくれる女さえあれば、自分はこんなに切なくお糸の事ばかり思いつめてはいまい。お糸の事を思えば思うだけその苦痛をへらす他のものが欲しい。さすれば学校とそれに関連した身の前途に対する絶望のみに沈められていまい……。
立見の混雑の中にその時突然自分の肩を突くものがあるので驚いて振向くと、長吉は鳥打帽《とりうちぼう》を眉深《まぶか》に黒い眼鏡をかけて、後《うしろ》の一段高い床《ゆか》から首を伸《のば》して見下《みおろ》す若い男の顔を見た。
「吉《きち》さんじゃないか。
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