ば、親代々の家《うち》を潰《つぶ》してこれまでに浮世の苦労をしたかいがない。通人《つうじん》を以て自任《じにん》する松風庵蘿月宗匠《しょうふうあんらげつそうしょう》の名に愧《はじ》ると思った。
 鼠がまた突如《だしぬけ》に天井裏を走る。風はまだ吹き止まない。釣《つるし》ランプの火は絶えず動揺《ゆらめ》く。蘿月は色の白い眼のぱっちりした面長《おもなが》の長吉と、円顔の口元に愛嬌《あいきょう》のある眼尻の上ったお糸との、若い美しい二人の姿をば、人情本の作者が口絵の意匠でも考えるように、幾度《いくたび》か並べて心の中《うち》に描きだした。そして、どんな熱病に取付かれてもきっと死んでくれるな。長吉、安心しろ。乃公《おれ》がついているんだぞと心に叫んだ。
[#地から2字上げ]明治四十二年八月―十月作
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   第五版すみだ川之序

小説『すみだ川』を草《そう》したのはもう四年ほど前の事である。外国から帰って来たその当座一、二年の間はなおかの国の習慣が抜けないために、毎日の午後といえば必ず愛読の書をふところにして散歩に出掛けるのを常とした。しかしわが生れたる東京の市街は既に詩をよろこ
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