た料理屋|橋本《はしもと》の板塀《いたべい》のために突然面目を一変させた。貧しい本所《ほんじょ》の一区が此処《ここ》に尽きて板橋のかかった川向うには野草《のぐさ》に蔽《おお》われた土手を越して、亀井戸村《かめいどむら》の畠と木立《こだち》とが美しい田園の春景色をひろげて見せた。蘿月は踏み止《とどま》って、
「私《わし》の行くお寺はすぐ向うの川端《かわばた》さ、松の木のそばに屋根が見えるだろう。」
「じゃ、伯父さん。ここで失礼しましょう。」長吉は早くも帽子を取る。
「いそぐんじゃない。咽喉《のど》が乾いたから、まア長吉、ちょっと休んで行こうよ。」
赤く塗った板塀に沿うて、妙見寺の門前に葭簀《よしず》を張った休茶屋《やすみぢゃや》へと、蘿月は先に腰を下《おろ》した。一直線の堀割はここも同じように引汐の汚い水底《みなそこ》を見せていたが、遠くの畠の方から吹いて来る風はいかにも爽《さわや》かで、天神様の鳥居が見える向うの堤の上には柳の若芽が美しく閃《ひらめ》いているし、すぐ後《うしろ》の寺の門の屋根には雀《すずめ》と燕《つばめ》が絶え間なく囀《さえず》っているので、其処《そこ》此処《ここ》に
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