のでない。お豊は長吉が久しい以前からしばしば学校を休むために自分の認印《みとめいん》を盗んで届書《とどけしょ》を偽造していた事をば、暗黒な運命の前兆である如く、声まで潜《ひそ》めて長々しく物語る……
「学校がいやなら如何《どう》するつもりだと聞いたら、まアどうでしょう、役者になるんだッていうんですよ。役老に。まア、どうでしょう。兄さん。私ゃそんなに長吉の根性が腐っちまッたのかと思ったら、もう実に口惜《くや》しくッてならないんですよ。」
「へーえ、役者になりたい。」訝《いぶか》る間《ま》もなく蘿月は七ツ八ツの頃によく三味線を弄物《おもちゃ》にした長吉の生立《おいた》ちを回想した。「当人がたってと望むなら仕方のない話だが……困ったものだ。」
お豊は自分の身こそ一家の不幸のために遊芸の師匠に零落《れいらく》したけれど、わが子までもそんな賤《いや》しいものにしては先祖の位牌《いはい》に対して申訳《もうしわけ》がないと述べる。蘿月は一家の破産滅亡の昔をいい出されると勘当《かんどう》までされた放蕩三昧《ほうとうざんまい》の身は、何《なん》につけ、禿頭《はげあたま》をかきたいような当惑を感ずる。も
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