さんは長吉の袖《そで》を引止めて、
「長さん、帰るのか。いいじゃないか。もう一幕見ておいでな。」
役者の仕着《しき》せを着た賤《いや》しい顔の男が、渋紙《しぶかみ》を張った小笊《こざる》をもって、次の幕の料金を集めに来たので、長吉は時間を心配しながらもそのまま居残った。
「長さん、綺麗《きれい》だよ、掛けられるぜ。」吉さんは人のすいた後《うしろ》の明り取りの窓へ腰をかけて長吉が並んで腰かけるのを待つようにして再び「僕ァ役者だよ。変ったろう。」といいながら友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の襦袢《じゅばん》の袖を引き出して、わざとらしく脱《はず》した黒い金縁眼鏡《きんぶちめがね》の曇りを拭きはじめた。
「変ったよ。僕ァ始め誰かと思った。」
「驚いたかい。ははははは。」吉さんは何ともいえぬほど嬉しそうに笑って、「頼むぜ。長さん。こう見えたって憚《はばか》りながら役者だ。伊井《いい》一座の新俳優だ。明後日《あさって》からまた新富町《しんとみちょう》よ。出揃《でそろ》ったら見に来給え。いいかい。楽屋口《がくやぐち》へ廻って、玉水《たまみず》を呼んでくれっていいたまえ。」
「玉水……?」
「うむ、玉
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