を悲しんだ。死んだ方がましだと思うだけ、一緒に死んでくれる人のない身の上を更に痛切に悲しく思った。
今戸橋を渡りかけた時、掌《てのひら》でぴしゃりと横面《よこつら》を張撲《はりなぐ》るような河風。思わず寒さに胴顫《どうぶる》いすると同時に長吉は咽喉《のど》の奥から、今までは記憶しているとも心付かずにいた浄瑠璃《じょうるり》の一節《いっせつ》がわれ知らずに流れ出るのに驚いた。
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※[#歌記号、1−3−28]今さらいふも愚痴《ぐち》なれど……
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と清元《きよもと》の一派が他流の模《も》すべからざる曲調《きょくちょう》の美麗を托した一節《いっせつ》である。長吉は無論|太夫《たゆう》さんが首と身体《からだ》を伸上《のびあが》らして唄ったほど上手に、かつまたそんな大きな声で唄ったのではない。咽喉から流れるままに口の中で低唱《ていしょう》したのであるが、それによって長吉はやみがたい心の苦痛が幾分か柔《やわら》げられるような心持がした。今更いうも愚痴なれど……ほんに思えば……岸より覗《のぞ》く青柳《あおやぎ》の……と思出《おもいだ》
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