雲のさはりなく、辛気《しんき》待つ宵、十六夜《いざよい》の、内《うち》の首尾《しゅび》はエーよいとのよいとの。※[#歌記号、1−3−28]聞く辻占《つじうら》にいそいそと雲足早き雨空《あまぞら》も、思ひがけなく吹き晴れて見かはす月の顔と顔……
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 見物がまた騒ぐ。真黒に塗りたてた空の書割の中央《まんなか》を大きく穿抜《くりぬ》いてある円《まる》い穴に灯《ひ》がついて、雲形《くもがた》の蔽《おお》いをば糸で引上げるのが此方《こなた》からでも能《よ》く見えた。余りに月が大きく明《あかる》いから、大名屋敷の塀の方が遠くて月の方がかえって非常に近く見える。しかし長吉は他の見物も同様少しも美しい幻想を破られなかった。それのみならず去年の夏の末、お糸を葭町《よしちょう》へ送るため、待合《まちあわ》した今戸《いまど》の橋から眺めた彼《あ》の大きな円《まる》い円い月を思起《おもいおこ》すと、もう舞台は舞台でなくなった。
 着流し散髪《ざんぱつ》の男がいかにも思いやつれた風《ふう》で足許《あしもと》危《あやう》く歩み出る。女と摺《す》れちがいに顔を見合して、
「十六夜《いざよい》
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