月一ぱい寝通してしまった。
八幡さまの境内に今日は朝から初午《はつうま》の太鼓が聞える。暖い穏《おだやか》な午後《ひるすぎ》の日光が一面にさし込む表の窓の障子には、折々《おりおり》軒《のき》を掠《かす》める小鳥の影が閃《ひらめ》き、茶の間の隅の薄暗い仏壇の奥までが明《あかる》く見え、床《とこ》の間《ま》の梅がもう散りはじめた。春は閉切《しめき》った家《うち》の中までも陽気におとずれて来たのである。
長吉は二、三日前から起きていたので、この暖い日をぶらぶら散歩に出掛けた。すっかり全快した今になって見れば、二十日《はつか》以上も苦しんだ大病を長吉はもっけの幸いであったと喜んでいる。とても来月の学年試験には及第する見込みがないと思っていた処なので、病気欠席の後《あと》といえば、落第しても母に対して尤《もっとも》至極《しごく》な申訳《もうしわけ》ができると思うからであった。
歩いて行く中《うち》いつか浅草《あさくさ》公園の裏手へ出た。細い通りの片側には深い溝《どぶ》があって、それを越した鉄柵《てつさく》の向うには、処々《ところどころ》の冬枯れして立つ大木《たいぼく》の下に、五区《ごく》の
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