とか思う元気さえなくなって、唯《た》だぼんやり、狭く暗い路地裏のいやに奥深く行先知れず曲込《まがりこ》んでいるのを不思議そうに覗込《のぞきこ》むばかりであった。
「あの、一《ひ》イ二《ふ》ウ三《み》イ……四つ目の瓦斯燈《ガスとう》の出てるところだよ。松葉屋《まつばや》と書いてあるだろう。ね。あの家《うち》よ。」とお糸はしばしば橋場の御新造につれて来られたり、またはその用事で使いに来たりして能《よ》く知っている軒先《のきさき》の燈《あかり》を指し示した。
「じゃア僕は帰るよ。もう……。」というばかりで長吉はやはり立止っている。その袖をお糸は軽く捕《つかま》えて忽《たちま》ち媚《こび》るように寄添い、
「明日《あした》か明後日《あさって》、家《うち》へ帰って来た時きっと逢《あ》おうね。いいかい。きっとよ。約束してよ。あたいの家《うち》へお出《いで》よ。よくッて。」
「ああ。」
 返事をきくと、お糸はそれですっかり安心したものの如くすたすた路地の溝板《どぶいた》を吾妻下駄《あずまげた》に踏みならし振返りもせずに行ってしまった。その足音が長吉の耳には急いで馳《か》けて行くように聞えた、かと思う
前へ 次へ
全94ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング