みた単衣《ひとえ》の三尺帯《さんじゃくおび》を解いて平気で褌《ふんどし》をしめ直している奴《やつ》もあった。この頃の空癖《そらくせ》で空は低く鼠色《ねずみいろ》に曇り、あたりの樹木からは虫噛《むしば》んだ青いままの木葉《このは》が絶え間なく落ちる。烏《からす》や鶏《にわとり》の啼声《なきごえ》鳩《はと》の羽音《はおと》が爽《さわや》かに力強く聞える。溢《あふ》れる水に濡《ぬ》れた御手洗《みたらし》の石が飜《ひるが》える奉納の手拭《てぬぐい》のかげにもう何となく冷《つめた》いように思われた。それにもかかわらず朝参りの男女は本堂の階段を上《のぼ》る前にいずれも手を洗うためにと立止まる。その人々の中に長吉は偶然にも若い一人の芸者が、口には桃色のハンケチを啣《くわ》えて、一重羽織《ひとえばおり》の袖口《そでぐち》を濡《ぬら》すまいためか、真白《まっしろ》な手先をば腕までも見せるように長くさし伸《のば》しているのを認めた。同時にすぐ隣のベンチに腰をかけている書生が二人、「見ろ見ろ、ジンゲルだ。わるくないなア。」といっているのさえ耳にした。
 島田に結《ゆ》って弱々しく両肩の撫《な》で下《さが》った小作りの姿と、口尻《くちじり》のしまった円顔《まるがお》、十六、七の同じような年頃とが、長吉をしてその瞬間|危《あやう》くベンチから飛び立たせようとしたほどお糸のことを連想せしめた。お糸は月のいいあの晩に約束した通り、その翌々日に、それからは長く葭町《よしちょう》の人たるべく手荷物を取りに帰って来たが、その時長吉はまるで別の人のようにお糸の姿の変ってしまったのに驚いた。赤いメレンスの帯ばかり締《し》めていた娘姿が、突然たった一日の間《あいだ》に、丁度今|御手洗《みたらし》で手を洗っている若い芸者そのままの姿になってしまったのだ。薬指にはもう指環《ゆびわ》さえ穿《は》めていた。用もないのに幾度《いくたび》となく帯の間から鏡入れや紙入《かみいれ》を抜き出して、白粉《おしろい》をつけ直したり鬢《びん》のほつれを撫《な》で上げたりする。戸外《そと》には車を待たして置いていかにも急《いそが》しい大切な用件を身に帯びているといった風《ふう》で一時間もたつかたたない中《うち》に帰ってしまった。その帰りがけ長吉に残した最後の言葉はその母親の「御師匠《おししょう》さんのおばさん」にもよろしくいってくれという事であった。まだ何時《いつ》出るのか分らないからまた近い中に遊びに来るわという懐《なつか》しい声も聞《きか》れないのではなかったが、それはもう今までのあどけない約束ではなくて、世馴《よな》れた人の如才《じょさい》ない挨拶《あいさつ》としか長吉には聞取れなかった。娘であったお糸、幼馴染《おさななじみ》の恋人のお糸はこの世にはもう生きていないのだ。路傍《みちばた》に寝ている犬を驚《おどろか》して勢よく駈《か》け去った車の後《あと》に、えもいわれず立迷った化粧の匂《にお》いが、いかに苦しく、いかに切《せつ》なく身中《みうち》にしみ渡ったであろう……。
 本堂の中にと消えた若い芸者の姿は再び階段の下に現れて仁王門《におうもん》の方へと、素足《すあし》の指先に突掛《つっか》けた吾妻下駄《あずまげた》を内輪《うちわ》に軽く踏みながら歩いて行く。長吉はその後姿《うしろすがた》を見送るとまた更に恨めしいあの車を見送った時の一刹那《いっせつな》を思起すので、もう何《なん》としても我慢が出来ぬというようにベンチから立上った。そして知らず知らずその後を追うて仲店《なかみせ》の尽《つき》るあたりまで来たが、若い芸者の姿は何処《どこ》の横町《よこちょう》へ曲ってしまったものか、もう見えない。両側の店では店先を掃除して品物を並べたてている最中《さいちゅう》である。長吉は夢中で雷門《かみなりもん》の方へどんどん歩いた。若い芸者の行衛《ゆくえ》を見究《みきわ》めようというのではない。自分の眼にばかりありあり見えるお糸の後姿を追って行くのである。学校の事も何も彼《か》も忘れて、駒形《こまかた》から蔵前《くらまえ》、蔵前から浅草橋《あさくさばし》……それから葭町《よしちょう》の方へとどんどん歩いた。しかし電車の通《とお》っている馬喰町《ばくろちょう》の大通りまで来て、長吉はどの横町を曲ればよかったのか少しく当惑した。けれども大体の方角はよく分っている。東京に生れたものだけに道をきくのが厭《いや》である。恋人の住む町と思えば、その名を徒《いたずら》に路傍の他人に漏《もら》すのが、心の秘密を探られるようで、唯わけもなく恐しくてならない。長吉は仕方なしに唯《た》だ左へ左へと、いいかげんに折れて行くと蔵造《くらづく》りの問屋らしい商家のつづいた同じような堀割の岸に二度も出た。その結果長吉は遥か向うに明治
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