とか思う元気さえなくなって、唯《た》だぼんやり、狭く暗い路地裏のいやに奥深く行先知れず曲込《まがりこ》んでいるのを不思議そうに覗込《のぞきこ》むばかりであった。
「あの、一《ひ》イ二《ふ》ウ三《み》イ……四つ目の瓦斯燈《ガスとう》の出てるところだよ。松葉屋《まつばや》と書いてあるだろう。ね。あの家《うち》よ。」とお糸はしばしば橋場の御新造につれて来られたり、またはその用事で使いに来たりして能《よ》く知っている軒先《のきさき》の燈《あかり》を指し示した。
「じゃア僕は帰るよ。もう……。」というばかりで長吉はやはり立止っている。その袖をお糸は軽く捕《つかま》えて忽《たちま》ち媚《こび》るように寄添い、
「明日《あした》か明後日《あさって》、家《うち》へ帰って来た時きっと逢《あ》おうね。いいかい。きっとよ。約束してよ。あたいの家《うち》へお出《いで》よ。よくッて。」
「ああ。」
 返事をきくと、お糸はそれですっかり安心したものの如くすたすた路地の溝板《どぶいた》を吾妻下駄《あずまげた》に踏みならし振返りもせずに行ってしまった。その足音が長吉の耳には急いで馳《か》けて行くように聞えた、かと思う間《ま》もなく、ちりんちりんと格子戸の鈴の音がした。長吉は覚えず後《あと》を追って路地内《ろじうち》へ這入《はい》ろうとしたが、同時に一番近くの格子戸が人声と共に開《あ》いて、細長い弓張提灯《ゆみはりぢょうちん》を持った男が出て来たので、何《なん》という事なく長吉は気後《きおく》れのしたばかりか、顔を見られるのが厭《いや》さに、一散《いっさん》に通りの方へと遠《とおざ》かった。円い月は形が大分《だいぶ》小《ちいさ》くなって光が蒼《あお》く澄んで、静《しずか》に聳《そび》える裏通りの倉の屋根の上、星の多い空の真中《まんなか》に高く昇っていた。

      三

 月の出が夜《よ》ごとおそくなるにつれてその光は段々|冴《さ》えて来た。河風《かわかぜ》の湿《しめ》ッぽさが次第に強く感じられて来て浴衣《ゆかた》の肌がいやに薄寒くなった。月はやがて人の起きている頃《ころ》にはもう昇らなくなった。空には朝も昼過ぎも夕方も、いつでも雲が多くなった。雲は重《かさな》り合って絶えず動いているので、時としては僅《わず》かにその間々《あいだあいだ》に殊更《ことさら》らしく色の濃い青空の残りを見せて置きながら、空一面に蔽《おお》い冠《かぶ》さる。すると気候は恐しく蒸暑《むしあつ》くなって来て、自然と浸《し》み出る脂汗《あぶらあせ》が不愉快に人の肌をねばねばさせるが、しかしまた、そういう時にはきまって、その強弱とその方向の定まらない風が突然に吹き起って、雨もまた降っては止《や》み、止んではまた降りつづく事がある。この風やこの雨には一種特別の底深い力が含まれていて、寺の樹木や、河岸《かわぎし》の葦《あし》の葉や、場末につづく貧しい家の板屋根に、春や夏には決して聞かれない音響を伝える。日が恐しく早く暮れてしまうだけ、長い夜《よ》はすぐに寂々《しんしん》と更《ふ》け渡って来て、夏ならば夕涼みの下駄の音に遮《さえぎ》られてよくは聞えない八時か九時の時の鐘があたりをまるで十二時の如く静《しずか》にしてしまう。蟋蟀《こおろぎ》の声はいそがしい。燈火《ともしび》の色はいやに澄む。秋。ああ秋だ。長吉は初めて秋というものはなるほどいやなものだ。実に淋《さび》しくって堪《たま》らないものだと身にしみじみ感じた。
 学校はもう昨日《きのう》から始っている。朝早く母親の用意してくれる弁当箱を書物と一所《いっしょ》に包んで家《うち》を出て見たが、二日目三日目にはつくづく遠い神田《かんだ》まで歩いて行く気力がなくなった。今までは毎年《まいねん》長い夏休みの終る頃といえば学校の教場が何《なん》となく恋しく授業の開始する日が心待《こころまち》に待たれるようであった。そのういういしい心持はもう全く消えてしまった。つまらない。学問なんぞしたってつまるものか。学校は己《おの》れの望むような幸福を与える処ではない。……幸福とは無関係のものである事を長吉は物新しく感じた。
 四日目の朝いつものように七時前に家《うち》を出て観音《かんのん》の境内《けいだい》まで歩いて来たが、長吉はまるで疲れきった旅人《たびびと》が路傍《みちばた》の石に腰をかけるように、本堂の横手のベンチの上に腰を下《おろ》した。いつの間に掃除をしたものか朝露に湿った小砂利《こじゃり》の上には、投捨てた汚い紙片《かみきれ》もなく、朝早い境内はいつもの雑沓《ざっとう》に引かえて妙に広く神々《こうごう》しく寂《しん》としている。本堂の廊下には此処《ここ》で夜明《よあか》ししたらしい迂散《うさん》な男が今だに幾人も腰をかけていて、その中には垢《あか》じ
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