く。何処《どこ》か近くの家で百万遍《ひゃくまんべん》の念仏を称え始める声が、ふと物哀れに耳についた。蘿月は唯《たっ》た一人で所在《しょざい》がない。退屈でもある。薄淋《うすさび》しい心持もする。こういう時には酒がなくてはならぬと思って、台所を探し廻ったが、女世帯《おんなじょたい》の事とて酒盃《さかずき》一《ひと》ツ見当らない。表の窓際《まどぎわ》まで立戻って雨戸の一枚を少しばかり引き開けて往来を眺めたけれど、向側《むこうがわ》の軒燈《けんとう》には酒屋らしい記号《しるし》のものは一ツも見えず、場末の街は宵ながらにもう大方《おおかた》は戸を閉めていて、陰気な百万遍の声がかえってはっきり聞えるばかり。河の方から烈《はげ》しく吹きつける風が屋根の上の電線をヒューヒュー鳴《なら》すのと、星の光の冴《さ》えて見えるのとで、風のある夜は突然冬が来たような寒い心持をさせた。
蘿月は仕方なしに雨戸を閉めて、再びぼんやり釣《つるし》ランプの下に坐って、続けざまに煙草を喫《の》んでは柱時計の針の動くのを眺めた。時々|鼠《ねずみ》が恐しい響《ひびき》をたてて天井裏を走る。ふと蘿月は何かその辺《へん》に読む本でもないかと思いついて、箪笥《たんす》の上や押入の中を彼方《あっち》此方《こっち》と覗《のぞ》いて見たが、書物といっては常磐津《ときわず》の稽古本《けいこぼん》に綴暦《とじごよみ》の古いもの位しか見当らないので、とうとう釣ランプを片手にさげて、長吉の部屋になった二階まで上《あが》って行った。
机の上に書物は幾冊も重ねてある。杉板の本箱も置かれてある。蘿月は紙入《かみいれ》の中にはさんだ老眼鏡を懐中《ふところ》から取り出して、先《ま》ず洋装の教科書をば物珍しく一冊々々ひろげて見ていたが、する中《うち》にばたりと畳の上に落ちたものがあるので、何かと取上げて見ると春着の芸者姿をしたお糸の写真であった。そっと旧《もと》のように書物の間に収めて、なおもその辺の一冊々々を何心もなく漁《あさ》って行くと、今度は思いがけない一通の手紙に行当《ゆきあた》った。手紙は書き終らずに止《や》めたものらしく、引き裂《さ》いた巻紙《まきがみ》と共に文句は杜切《とぎ》れていたけれど、読み得るだけの文字で十分に全体の意味を解する事ができる。長吉は一度《ひとたび》別れたお糸とは互《たがい》に異なるその境遇から日一日
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