すみだ川
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)俳諧師《はいかいし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)事|膳《ぜん》を

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(例)※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]
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      一

 俳諧師《はいかいし》松風庵蘿月《しょうふうあんらげつ》は今戸《いまど》で常磐津《ときわず》の師匠《ししょう》をしている実《じつ》の妹をば今年は盂蘭盆《うらぼん》にもたずねずにしまったので毎日その事のみ気にしている。しかし日盛《ひざか》りの暑さにはさすがに家《うち》を出かねて夕方になるのを待つ。夕方になると竹垣に朝顔のからんだ勝手口で行水《ぎょうずい》をつかった後《のち》そのまま真裸体《まっぱだか》で晩酌を傾けやっとの事|膳《ぜん》を離れると、夏の黄昏《たそがれ》も家々で焚《た》く蚊遣《かやり》の烟《けむり》と共にいつか夜となり、盆栽《ぼんさい》を並べた窓の外の往来には簾越《すだれご》しに下駄《げた》の音|職人《しょくにん》の鼻唄《はなうた》人の話声がにぎやかに聞え出す。蘿月は女房のお滝《たき》に注意されてすぐにも今戸へ行くつもりで格子戸《こうしど》を出るのであるが、その辺《へん》の涼台《すずみだい》から声をかけられるがまま腰を下《おろ》すと、一杯機嫌《いっぱいきげん》の話好《はなしずき》に、毎晩きまって埒《らち》もなく話し込んでしまうのであった。
 朝夕がいくらか涼しく楽になったかと思うと共に大変日が短くなって来た。朝顔の花が日ごとに小さくなり、西日が燃える焔のように狭い家中《いえじゅう》へ差込んで来る時分《じぶん》になると鳴きしきる蝉《せみ》の声が一際《ひときわ》耳立《みみだ》って急《せわ》しく聞える。八月もいつか半《なかば》過ぎてしまったのである。家の後《うしろ》の玉蜀黍《とうもろこし》の畠に吹き渡る風の響《ひびき》が夜なぞは折々《おりおり》雨かと誤《あやま》たれた。蘿月は若い時分したい放題身を持崩《もちくず》した道楽の名残《なごり》とて時候の変目《かわりめ》といえば今だに骨の節々《ふしぶし》が痛むので、いつも人より先に秋の立つのを知るのである。秋になったと思うと唯《ただ》わけもな
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