しかし、彼女は気にはしながらも少女に赤ん坊を任して、朝田の邸へ奉公に出かけた。朝はまだそうでもなかったのが、昼に出かけるときにはもはやひどい高熱だった。けれども、彼女はやっぱり出かけなければならなかった。
 彼女は三時の音を聞いて、急いで朝田邸の門を出た。門を出たばかりのとき、背後で自動車の音がした。自動車が急停車をしたのだった。それには主人の朝田が乗っていた。
「松島さん、あんたの家は工場へ行く途中じゃったね。どうせ通りがかりじゃから、さあここへ乗っていきなさい」
 朝田は窓から首を出して言った。
「…………」
 彼女は微笑《ほほえ》みながらお辞儀をしただけで躊躇《ちゅうちょ》した。
「なにも遠慮はいらんのだ。どうせ通りがかりじゃから、さあ遠慮することはないんだから」
「…………」
 彼女はまたお辞儀をした。
「さあ、構わんからここへ乗んなさい」
「では、失礼でございますけど……」
 彼女はまず自分の赤ん坊のために喜んだ。かつて自分の夫が、彼らは血も涙も持たない資財の傀儡《かいらい》だ! と罵倒《ばとう》した言葉はまったく反対な作用で彼女に働きかけていた。彼女は血も涙もある人間の前に
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