て、工場には慣れていない人ですから、そんなことを言われると本当にしてしまいますわ」
彼女は雑役夫の言葉を否定した。それほどのことがあったのなら、工場から知らせてくれないはずはないと思ったからだった。
「だがよ、人の話だども、嘘《うそ》じゃねえようだでな。なんでも、胴が味噌のようになっても、病院へ持っていくまではひくらひくらと動いていて、熊《くま》か何かのように唸《うな》っていたそうだで。そして、医者が腹から着物を剥《は》がすべと思ったらよ、ひと唸りうんと唸って、それっきりだったという話なんだがな」
「おじさん! 本当のことなんですの? 本当のことなんですの?」
彼女はそう言いながら、赤ん坊を背負って雑役夫の返事を待たずに家を飛び出した。そして彼女は工場まで、背中の子供を揺すり上げ揺すり上げほとんど駆けつづけたのだった。
工場の門の前まで来たとき、彼女はどっちが本当なのかしら? と、もう一度疑いを持って考え直してみた。が、大きな三本の煙突から煙の上がっていないことや、機械の絡み合う騒音の聞こえてこないことが、彼女に対して夫の死の宣告を矢のように射込んだ。
「松島の死体を見せていただきたいんですけど」
彼女はいきなり門衛に言った。
「松島さんの、何を、ですと?」
「あの、昨夜は夜業をしたんでしょうか?」
「ここは他の工場と違って、夜業をやらないです」
「まあ! 変ですわ。では、松島の死体はどうなっているんでしょう?」
彼女は門の前で経験した気持ちをもう一度繰り返しながら、叫ぶような調子で訊《き》いた。
「松島さんの死体とね? 松島、重三郎《じゅうざぶろう》さんですかね?」
「松島重三郎の死体、どうなってるんですの?」
「松島さんが死んだというんですね? 瀕死《ひんし》の怪我人とか死骸《しがい》ですと、夜中でない限り裏門から出ませんでな。門衛のほうの名簿ですと、松島さんは昨日限り退職されたことになっておりますがね」
門衛は落ち着いて帳簿を繰るのだった。
「では、どなたに訊《たず》ねたら分かるんですの?」
「明日にしてください。明日もう一度来て、監督さんに会ってください。工場にはもうだれもいませんから」
頑丈な鉄格子の門の奥には、黒い大きな建物が鯨のように横たわっているだけだった。
もし死んだのが本当なら、殺《や》られたのだ! 殺られたのだ?――彼女はだんだんとそんな風に思い詰めてきていた。
工場に慣れていないからとて、そんなへまなことをする人ではない! 殺られたのだ!――と彼女は信じた。しかし、不思議に彼女は涙も出なかったし、悲しいとも思わなかった。底の底では判然とそれを信じ切っていないのだった。むしろ、いまに帰ってくるに相違ないとさえ思っていたのだった。
その晩遅くなってから、十一時過ぎに、工場の監督が彼女を訪ねてきた。それが工場の監督と分かると、彼女は先手を打った。
「松島の死体は、いったいどうなっているんでしょうね?」
「…………」
監督は黙ってお辞儀をした。
「怪我をしたのなら、どうしてその時すぐに知らせていただけなかったのか、それがわたしにはどうしても分かりませんわ」
「実は、すぐお知らせするはずだったのですが、あまりひどかったものですから、かえってお目にかけないほうがよかろうということになりまして、すぐそのまま病院のほうへ……」
「まるで品物ですのね。あんまりじゃないでしょうか? あんまりですわ! それで、死んだのは本当なんでございますか?」
「まったく、お気の毒ともなんとも……」
「本当のことをおっしゃってください。本当はあなたが、松島にいられたんでは具合が悪いので、どこかへ行ってもらったんでしょう」
「いいや! 本当に亡くなられたんです。これはわずかばかりですが、工場のほうからの遺族|慰藉料《いしゃりょう》というわけで、お香典なのですが、まあ、これを何よりの証拠と思っていただきたいんです」
監督はそう言って、彼女の前に封筒を出した。
「まあ! それが松島の死んだ証拠だというんですか? どうして死体をひと目見せてはくれないのでしょうね」
「それはさきほども申しましたように、とてもひどかったものですから、お目にかけたらいつまでもいつまでも目に残ってお困りだろうと存じまして、いっそのことお骨にしてからお目にかけたほうがよかろうということに……、みなの意見だったものですから」
「でも、わたしは見なければ信じられませんわ」
「わたしのほうでは実を申しますと、最初に少しばかり怪我をして、それが原因でだんだん悪くなって亡くなったようにお知らせしたかったのです。なるべく、びっくりさせ申したくないと存じまして」
「どうして本当のことをおっしゃってはくださらないんでしょうかね? あなたのほうでは他の職工さんたちに
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