した。
「ぼくには、そんな泣き声なんか聞こえませんがね。あなたは頭がどうかなってるのじゃないですか?」
「わたしの頭がどうかなったっていうの? そりゃ、頭もどうにかなりそうだったわ。気がおかしくなりそうだったわ。でもわたし、あなたを捜し当てるまでは、捜し当てるまではと思って、おかしくならないでいたのよ。おかしくならないでいて、あなたに何もかも話してあげなければいけないと思っていたのよ」
彼女は真面目《まじめ》だった。言われてみると、やはり彼女は正気らしかった。だいいち、彼女は身奇麗にしていた。常人には見られないほどみずみずしく輝く目で、彼女は睨《にら》むようにして相手を見詰めるのであるが、それは彼女の真面目さからというべきだった。青白く窶《やつ》れた頬も異常からというよりは、生活上の苦しさを告げているようだった。そして、黒い頭髪にはよく櫛《くし》が通っていた。
「ねえ、何もかも話してあげるわ。黙って聞いてらっしゃい。本当にあの工場だけは、もうどんなことがあっても駄目よ」
彼女はじっと彼の顔を見守りながら、そう話を進めていった。
彼女は共同井戸から水を汲《く》んでいた。そこへ工場から少年工が駆け込んできた。
「ねえ、今夜は夜業で帰れねえんですと」
少年工は息を弾ませながら言った。そして、ずるずるっと青黒い洟汁《はな》を啜《すす》り上げた。
「松島《まつしま》がですか?」
「うん」
少年工は機械の油に汚れた草履を重そうに、ばたりばたりと曳《ひ》き摺《ず》って帰っていった。
彼女は不機嫌な気持ちで家の中に入った。夜業をするなんてでたらめだと思ったからだった。そんなことでだれが騙《だま》されるものかと彼女は思った。これまで、工場のほうから夜業をするから帰れないという通知を受けたことは一度だってなかった。きっとまた、自分に隠れて会合へ出ていったのに相違はないと彼女は思った。なぜ妻にまで秘密にする必要があるのだろう? と思うと、彼女はなにかしら掻《か》き毟《むし》りたいような気持ちになっていた。
彼女の不機嫌は翌朝まで続いた。彼女は赤ん坊が小便をしたといっては胯《また》を抓《つね》った。乳の呑《の》み方が悪いといっては平手で頭を撲《ぶ》った。それからすべての器物にも手荒く当たった。――翌朝になっても彼女の夫は帰ってこないからだった。
翌朝そこへ、工場からまた使いが来た。今度は少年工でなく、年寄りの雑役夫だった。
「お! こちらの松島さんはよ、昨夜《ゆうべ》、夜業をして怪我《けが》をしてな。うんで病院のほうへ行ったからよ、そのつもりで心配しねえでいてくれ」
「怪我をしたんですって? ひどく怪我をしたんですか?」
「おれは見なかったんでな、どの程度だかよく知らねえが、大したことじゃあるめえて。とにかくよ、心配しねえでてくれってことだから……」
「で、その病院って、どこの病院なんでしょうね?」
「さあ? おれには分かんねえがな。とにかくよ、心配しねえでてくれってことだから……」
雑役夫の親父《おやじ》はそれだけ言って、帰っていった。彼女は雑役夫の伝えてきた夫の行動を信じなかった。自宅にも帰れないほどの怪我をしているのなら、病院の名を知らせないはずはないと思ったからだった。
彼女はその日一日じゅう、内職の手袋編みが少しも手につかなかった。そして、彼女は夫を憎んだ。結婚をしてから幾度となく繰り返された経験だった。しかし、彼女は苦しい生活のことを考えてくれずに仕事を休んでいる夫を憎んでいるのではなかった。会合のことといえば秘密にして、そういうことは女などには分からぬものと決めている夫を憎んでいるのだった。
その日の夕方、また雑役夫の親父さんが工場の帰りに寄ってくれた。
「今朝はな、おれは工場からの使いだったので本当のことを話せなかったんだどもな。松島さんのことをよ」
「今朝だって、工場から来たんじゃないんでしょう? 松島はどこかへまた、みんなを集めるんでしょう」
「うんにゃ! 人の話だども、それがひでえんだよ。うん、ひでえんだという話だよ」
「本当に、では、怪我をしたんですね」
彼女は意外だというようにして訊《き》き返した。
「それが、怪我ぐれえのとこならいいのだがよ、こちらの松島さんは機械に食われてさ、胴がまるで味噌《みそ》のようになったんでねえか! 人の話だがよ。おれは見ねんだどもな」
「そのこと、ほんとなんですの?」
彼女は胸がどきっとした。考えてみるとこの瞬間、彼女の全身の血が夫に対する愛情と生活上の問題との間を、最大急行列車のピストン・ロットのように急速度の往復運動をしたのに相違なかった。
「人の話で、おれは見ねえんだどもよ」
「そんなことを言って驚かさないでください。松島はいままで本にばかり齧《かじ》りついてい
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