蜜柑
佐左木俊郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)襤褸《ぼろ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
一時|杜絶《とだ》えた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]――昭和二年(一九二七年)『随筆』二月号――
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一
お婆さんはもう我慢がしきれなくなって来た。けれども彼女は、しばらくの間を薄い襤褸《ぼろ》布団の中で、ただ、もじもじしていた。
厚い板戸を隔てた台所の囲炉裏端《いろりばた》では、誰か客があるらしく、しきりと太い話し声がやりとりされている。折々大きな笑い声も洩れて来る。慥《たし》かに誰かが来ているらしい。お婆さんは布団からそおうっと顔を出して見た。併しお婆さんは、また躊躇《ちゅうちょ》した。そして室の中を見廻した。
室《へや》の中にも晩秋の寂寥《せきりょう》は感じられた。障子の上には、二尺ぐらいの高さのところまで、かんかんと陽《ひ》があたっている。死に残った四五匹の蠅が、陽のあたった白い部分で、ぶぶうっと紙に突きあたっている。ところどころの、破れて垂れ下がった紙の上には、薄黒く埃が溜まっていた。
台所の囲炉裏端からは、再び大きな笑いの声が起こった。
「本当、豆でも買って、まめになんねえで、どうもこうも……」
ひどく嗄《しゃが》れた、老人らしい声であった。
「ほんでえ、俺家《おらえ》の婆様《ばんさま》にも豆買いでもさせんべかな。」とお婆さんの伜《せがれ》の治助は笑いながら言った。
「此方《こっち》の家の婆様《ばんさま》なんか、何が……りっきとした息子があんのに。」
老人らしい声は、語調を力《つと》めて言った。
慥《たし》かに誰かが来ている。――とお婆さんは思った。そう思った瞬間、客があるという意識で、お婆さんは小児のような心理状態に置かれた。
「松! 松! 松はいねえがあ?」
お婆さんは、咽喉《のど》に引っ掛かるような声を搾《しぼ》って、二番目の孫娘を呼んだ。併し、それにはなんの答えもなかった。
「松! 水一杯呑ませで呉《け》ろちゃ。」と、お婆さんは続けた。そして咽喉をごくりと言わせた。
やはり、なんの答えも返っては来なかった。一時|杜絶《とだ》えた囲炉裏端の話し声は、再びひそひそと続けられているらしかった。お婆さんは、青い静脈の浮いている瞼《まぶた》を静かに閉じた。そして唇を動かした。また咽喉がごくりと鳴った。
「駄目だ駄目だ。水なんか呑ませじゃ駄目だ。婆様は水を呑ませっとすんぐに寝小便だから……」
こう言っている声を、たしかにそう言っている声をお婆さんは聞いたように思った。
蒼白《あおじろ》い瞼《まぶた》の陰《かげ》には、いろいろな場面が繰《く》り展《ひろ》げられた。六十幾年間の自分自身の苦闘の姿であった。そこには、寝小便ばかりではない。食事最中にまで、自分の懐《ふところ》で糞《うんこ》をした伜や孫がいた。そして、一旦老衰の床に就くと、一杯の水さえ自由に与えられない自分自身の姿が、自分の瞼の裏に描かれていた。
障子の上で、ぶぶうっと紙に突き当たっていた蠅が一匹、お婆さんの瞼へ来てとまった。お婆さんは閉じたままの瞼をひくひくと微動させた。蠅はすぐに飛び去った。睫毛《まつげ》の間には、小粒の涙滴《るいてき》が、一列に繁叩《しばたた》き出された。
二
お美代が土瓶《どびん》と飯茶碗とを持ってはいって来た。足音でお婆さんは布団の襟に眼をこすりつけた。
「婆《ばば》さん、ほら、水持って来したで。」
「うむ、水!――どうも眼が霞《かす》んで。」
お婆さんは口まであけて、顎《あご》をこすりつけているように、顔を布団に埋めながら低い声で言った。
「あ、お美代が? 今朝来たのが?」
「うむ、今朝。」と、うなずきながら、お美代は茶碗に水を注ぎ満たした。
「大変《おっかねえ》まだ早ぐ来たで。――どんな風だ大崎の方は? 仕事の早い処だぢ、田畑《たはた》の仕事は片付いてしまったがあ。」
お婆さんは静かに寝がえりながら、低い消え入るような声で吐切れ吐切れに言った。お美代は茶碗を取ってお婆さんの方へ出した。お婆さんは布団の中から、痩せた青筋の節《ふし》くれだった大きな手を出したが、手はなかなか伸びそうもない。手よりも先に、頤《あご》の方が出て行った。
「なんだけえ、まず、お美代。汝《にし》の手は……」
お婆さんは、ごくりごくりと咽喉《のど》を鳴らしながら水を呑んだ。お美代はすぐに眼を伏せて、膝の上の自分の手を見た。玄《くろ》い肌には一面の赤い皸《ひび》だった。節々《ふしぶし》は、垢切《あかぎれ》に捲かれた膏薬で折り曲げもならぬほどであった。
「新田《にいだ》の方はそんなに仕事がひどえのがあ、お美代。―
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