*
 併し、伝平は、四十を過ぎても、やはり、しがない暮らしで、自分の持ち馬というものが出来なかった。それに、体力の方も酷く落ちてしまって、すぐ疲労を感ずるようになっていた。女房のスゲノも、五人かの子供を産んで、何もかももう渇《か》れきってしまっているようであった。伝平が力にしているのは、最早《もはや》、伜《せがれ》の耕平だけであった。
「耕平! 汝《にし》あ早く立派な稼人《かせぎて》になんなくちゃいけねえぞ。俺等はもう駄目だからなあ。早く立派な馬でも飼うようになって……」
 父親の伝平は、ときどきそんなことを言うのであった。
「お父《ど》う! 俺、鉄道の、砂利積みに行きてえなあ。鉄道の砂利積みに出て稼ぐど、四月《よつき》か五月《いつつき》で、馬一匹は楽に買えるから。」
 耕平はそう言って、最早、青年達の中へ飛び出して行きたがっているのだった。
「それさあなあ。金は取れるかも知れねえけど、貨車の上さ立ったりして乗ってるらしいが、危ねえようだなあ。幾ら金になったって生命には換えられねえんだから、やはり、見合わせた方がよかんべぞ。」
 父親の伝平はそう言って、耕平が砂利貨車で稼ぐことは、悦ばなかった。むろん、馬は欲しいのであったが、そんな風にして四十銭五十銭と持ち帰る金で馬など容易に買えるものではなく、幾度も幾度も怪我人を出していることを聞くと、伝平は、やはり、耕平を出してやる気にはなれなかった。併し、耕平は、いつの間にか、父親に隠れるようにして、砂利貨車に働いているのだった。
「お母《か》あ! お父《ど》うさに言うなよ。お父うは、馬一匹買えるだけに、金を蓄《た》めてから知らせるべし。」
 耕平はそう言って、五十銭ばかりずつ賃銀を、母親のところへ運んで来た。それは、籠に水を汲み溜めようとするようなもので、穴だらけな生活の中へ消えて行ってしまうのであったが、父親も母親ももう、耕平が砂利貨車に働くことを止めようとはしなかった。そして母親は、耕平の肩に、成田山の守護札などをかけてやった。
 併し、そんな風にして一ヵ月ばかりも過ぎたころ、耕平は、進行中の貨車と貨車との間に墜落して、胴体を切断された。殆ど即死であった。父親の伝平も母親のスゲノも、驚きだけが先に来て、涙も出なかった。遣《や》る瀬《せ》の無い悲しみの涙がじめじめと頬へ匐《は》い出して来たのは、耕平が死んでから十日も過ぎてからであった。そして、父親も母親も、失神の状態で、幾日も幾日も仕事が手につかなかった。それでも、砂利会社からの慰藉金《いしゃきん》や、同僚達からの香奠《こうでん》などを寄せると、伝平夫婦の手には、百円ばかりの金が残った。
「これこそあ、耕平の野郎の、身《み》の代金《しろきん》だぞ。無暗なことにあ遣《つか》われねえぞ。この金は、金として、取って置かなくちゃ。」
 伝平はそう言って、その金で馬を買う気持ちさえも、その当座は起こらないらしかった。
「ほんでも、金で持ってるど、眼に見えねえごとに遣《つか》ってしまうんじゃねえかね。」
 女房のスゲノは首を傾《かし》げながら言うのだった。炎天の下に水を溜めようとしても、水は、いつの間にか蒸発してしまう。伝平もそれは知っていた。
「思い切って、耕平の野郎さ、立派な墓石でも建ててやるか?」
 伝平は眼を輝かしながら言った。
「それさね。ふんでも、立派な墓石など建てたって、毎日お墓さ行って見れるもんでもあるめえしね。何か家さ置けるものを買ったら、どんなものかね。」
「それじゃ仏壇でも買うか?」
「それよりも、思い切って、馬のいいのを買ったらどうかね。耕平も、馬を買うべって稼ぎに行って……」
 母親はそう言っているうちに、涙がじめじめと虫のように匐《は》い出して来て、言葉が継《つ》げなくなった。
「よし! 馬を買うべ! 馬のいいのを買うべ!」
 伝平は手を叩くようにして言った。
 伝平はそうして、七十円ばかりで、橡栗毛《とちくりげ》の馬を一匹買ったのだった。残りの金では、馬小屋にも手入れをした。そして、伝平は、一日のうち、馬小屋にいる時間の方が、遙かに長かった。
「おおら! おおら! おおら!」
 伝平はそう言って、馬の肩あたりを撫《な》でてやりながら、いつまでも凝《じ》っと馬の眼を視詰めているのだった。そして、伝平の眼には、いつの間にか涙がするすると湧いて来る。伝平はすると、馬の首に手をかけて、その眼を馬の顔に押し当てるのだった。
「汝《にし》等あ、馬を大切にしなくちゃなんねえぞ。兄ちゃんの身代わり金で買ったのだから、馬だって、兄ちゃんと同じことだぞ。兄ちゃんさ美味《うま》いもの喰わせるつもりで、美味そうな青い草でもあったら、取って来て喰わせたり、大切にしなくちゃなんねえぞ。」
 伝平は、そう小さな子供達に言うのだった。
「耕! 耕! 耕や!」
 伝平は馬の肩を撫でながら、そんな風に言っていることもあった。
「伯楽は、なんのつもりで、馬を買ったんだべ? 馬を遊ばせて置いて、伯楽は自分で重いものを背負っているじゃねえか? 自分で馬を持ったことねえもんだから、惜しくて、使われねえのじゃねえか?」
 部落ではそんな噂《うわさ》をしていた。いくらかそんな気持ちもあるにはあったが、伝平夫婦には、馬が伜の耕平に見えて仕方がないのだった。女房のスゲノも、涙がじめじめとわけもなく出て来るときなど、馬小屋へ行っては、馬の肩を撫でながら、一時間でも二時間でも馬の眼を視詰めていた。
       *
 併し、農事が忙しくなると、やはり、飼ってある馬を使わずにはいられなかった。雑木山からの薪運びに、伝平は、初めて馬を使役に曳き出した。むろん、馬に、乗る気になどはなれなかった。腰を曲げるようにして、崖《がけ》の上の細い坂路を、馬を曳いて上って行った。
 伝平はそして、荷を、軽目に積んだ。併し、馬は、暫く荷を張られなかったので、荷を積んで曳き出すと、一脚ごとに鞍を揺《ゆ》す振《ぶ》った。そして、崖の上の下り勾配《こうばい》にかかると、跛《びっこ》でも引くように、首を上げ下げして、歩調を乱すようにしては立ち止まるのであった。
「脚が悪いのかな?」
 伝平はそう言って、何度も振り返って見たが、坂の中途で馬を停めてしまった。
「可哀想な野郎だよ。」
 伝平はそう言いながら、六個の薪束を、四個に減らした。そして、伝平は、自分が背負っていた二個に、さらにその二個を加えた。立ち上がると、四個の薪束の重さで、伝平はよろよろした。ちょうどそのとき、路の上に垂れ伸びていた木の枝が、馬の顔をばさりと叩いた。馬は驚いて跳《は》ねあがった。その途端に、馬は、崖に脚を踏み外《はず》してしまった。
「あっ! あっ! あっ!」
 伝平は叫びながら手綱《たづな》を手繰《たぐ》ったが、もう間に合わなかった。四個の薪束の重さで、足がよろよろ浮いているところを、崖に墜落して行く馬の手綱にぐっと引かれて、伝平はひとたまりもなく谷底へ伴れて行かれてしまった。
       *
 伝平の怪我も、馬の怪我も、殆んど、致命傷だった。
「耕平の怪我はどうだあ! 耕平の方は俺より酷《ひど》くねえか? 生命《いのち》がありそうか!」
 伝平はそう譫言《うわごと》のように言うのだった。
「お父《ど》う! 馬は大丈夫だあ。馬は大丈夫だからお父うばかり……」
 女房のスゲノは伝平の耳に口を当てて言った。
「大丈夫か? 耕平が大丈夫ならいい。俺はもう先のねえ人間だ。耕平が助かればそれでいい。俺など構ってねえで、汝《にし》あ、耕平の方さ行ってやれ。」
 伝平はそう譫言《うわごと》のように言い続けながら三日目に死んだ。
[#地から2字上げ]――昭和七年(一九三二年)『新潮』八月号――



底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
   1984(昭和59)年4月14日初版発行
初出:「新潮」
   1932(昭和7)年8月号
入力:田中敬三
校正:小林繁雄
2007年7月23日作成
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