都会地図の膨脹
佐左木俊郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)窓帷《カーテン》を
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)鉄筋|混凝土《コンクリート》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》り
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序景
窓は広い麦畠の、濃緑の波に向けて開け放されていた。擽るような五月の軟風が咽せかえるばかりの草いきれを孕んで来て、かるく、白木綿の窓帷《カーテン》を動かしていた。
南面の窓に並んで、鉄筋|混凝土《コンクリート》の上層建築が半分ほど出来あがっていた。その上に組まれた二本の大きな起重機は、艶消電球のような薄曇りの空から、長い鉄骨の手を伸して、青い麦畠やそのまわりの小さな建物を掴みあげようとしていた。
北側の窓の真ん前には、建築混凝土用の捲揚機が組まれて、大規模の工場が建築されかけていた。その建築場と校庭との間には、焼跡のような住宅予定地が拡っていた。塵埃《ごみ》や紙屑や、瀬戸物の破片、縄端、木片などが散らばり、埋め、短い青草の禿げている空地。校庭から子供達がときどきそこへ転り込んで行った。
建築場の空では、カラカラカラララララと、ひっきりなくクレインが鳴っていた。混凝土をあける音は一日中、一定の時間を置いて、窓窓の硝子を震動させた。
尋常五年の教室では地理の時間が始っていた。黒板の片隅には、縮尺五千分の一の「本郡全図」が掛けられていた。地図に対する概念を固めるために、生徒の熟知している土地の地図に就いて、踏査的教授を与えているのであった。
「この地図の上で、煉瓦色に塗られてある部分は、市街から続いて来ている郡部の町で、この緑色の部分は、田舎なのです。即ち私達の村がこの緑色の部分なのであります。ところが、これは三四年前に拵えた地図で、毎年一度ずつ訂正を加えているのですが、現在《いま》では又この地図とは大部違って来ているのであります。」
そこで教師は、ぽんと、細い竹鞭で地図の上を打った。動きかけていた生徒の視線が又一斉にそこへ集って行った。
「何処がどんな風に変ったか? 今日は一つ、皆さんにその変ったところを見つけて貰らおうと思うのだが、さあ誰かわかる人はありませんか?」
教師は又ぽんと地図を打った。
「地図の中央を流れている川の、水の色が変ったのであります。以前《もと》は綺麗な水が流れていたから水色になっていますが、川上に住宅地が出来てから、住宅の人達が、塵埃だの洗濯水だの、いろいろな穢いものを川へ流すので、現在では、黒い水が流れているのであります。」
「川の、水の色か? うむ。」
教師は唸った。そして言った。
「併し、地図の上で川を水色にしてあるのは、第一の目的が(これは川だぞ)と云うしるしなので、黒い水が流れているからと云って黒く描いたら、道路か何かと間違われやしないかな? 誰か他に……」
「学校の前から、住宅地の方へ行く、真直ぐな四間道路が新しく出来たのであります。」
「学校の前から住宅地の方へ行く新道。よろしい!」
言いながら教師は、赤い白墨で、地図の上に一本の直線を引いた。
「この新道が、去年の今頃から今日までに出来たものの一つ。それから何処かに変ったところが無いかな? さあ、誰か……」
教師は生徒等へ微笑みかけながら言った。
「わからないかな! よしっ! じゃ一つ先生が見つけて見よう。いいか? この煉瓦色の部分だ。これは前にも言ったように、人家の建混んでいる都会の色、市街地の色なのであるから、この地図の上で、当然この色が塗られていなければならない部分に塗り落されているように思うが……誰か、わかる人?……」
「市街地は学校の前まで膨《ふく》らんで来ているのに、地図の上では、用水堀のところまでが市街地のようになっているのであります。」
「よろしい! そうだ。去年の今頃は、市街地はまだ用水堀のところまでしか膨らんで来ていなかった。そしてこの学校は、この地図の上でもわかるように、青い麦畠の真中にあった。ところが市街地は僅か一年の間に、丁度、校長先生のお腹のように、斯《こ》う弓なりに学校の前まで膨らんで来た。そしてこの小学校は、田舎の小学校だか、都会の小学校だかわからなくなって了った。」
教師は言いながら、煉瓦色の白墨で、地図の上に一本の彎曲線を描いた。生徒等は忍び笑いをして、低声《こごえ》に囁き合った。
「騒いではいけない。さあ、此方を見て……」
彎曲線の内部は煉瓦色で塗り潰されていた。
「ところでと、一体、どうして市街地は、斯うどんどん拡って行くのだろう? まさか校長先生のように、御馳走をどっ
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