だ。
併し彼女は恵子のことを思い出した。母親の子守唄を思い出すと、やはり帰らずにはいられない気持ちに圧《お》しつけられるのだった。今日は勝手に遅くまで遊んで帰れ! という気持ちだったのだが、三枝子は遂に早く帰ってしまった。そしていつものところまで来ると、自然と母親の子守唄に耳を立てるのだった。
「接吻《キッス》をして頂戴よ。ねえ! 接吻をして頂戴よう。」
三枝子は、静枝のその声を耳にして、立ち止まった。胸が、がんがんして来た。
「ねえ! 接吻をして頂戴よう。厭なの? 厭ならいいわ。」
三枝子はその声の方へ歩み寄って行った。
なんというずうずうしさだろう! あれほど言ってやったのに、今夜もこんなところまで送って来ているのだ。
併し、その辺の暗がりの中には、誰の影も無かった。三枝子は立ち止まった。
「君の、接吻をして頂戴よ! は大体いいがね。厭なの? を、もう少しなんとか出来ないかね?」
見ると、そこの街裏にガランとしたバラックの建物があって、その窓の中に静枝のように絢爛な着物を着た若い女や、髪を長くした青年がたくさん坐っていた。そしてその広い板の間の中央に出ているのが静枝だった。その傍に青年が二人立っていた。
「厭なの? も媚《こび》にならなくちゃ、ね。」
こう一人の青年は言っていた。
「もともとこの芝居は『媚を売る街』というので、媚を売らなければ生活の出来ない女性という感じが来なければ、このプロレタリア劇は失敗なのだからね。いいかね、君は、昨夜は大へんうまかったが、今夜は、それを言うのに、なんか少しおどおどしているよ。」
三枝子は、もうどうしていいかわからなかった。併し、静枝の帰るのをそこで待っていようと思った。
「君も、これで生活をして行こうと思うんなら、身を入れてやって下さい。」
こう言われて、静枝は涙含《なみだぐ》んでいるようだった。誰も楽ではないのだ! 社に居残って仕事をするのと同じように、こうして幾晩も稽古をしては舞台に出るのだ! そしてもらった報酬で社からもらった給料を補って来ているのだ! と三枝子は、苦しい気持ちで窓の中を見続けた。
「じゃ、もう一度やって見て下さい。」
静枝はそこへ坐った。
「おい! 三枝さんかい? 何を見ているんだい?」
振り返って見ると、そこに、疲れ切った彼女の夫が立っていた。声を立てられない立場から、三枝子は固く夫の手を握った。
[#地から2字上げ]――昭和四年(一九二九年)『婦人サロン』十一月号――
底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年9月16日公開
2005年12月21日修正
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