の勤めからの報酬で十分に支え得るであろう。
そこまで考えると、三枝子は最早《もはや》夫に対して昨夜のことを詰責《きっせき》せずにはいられない気がした。彼女は夫の方を偸《ぬす》み見た。
併し彼女の夫は、鈍感な妻が気のついている筈は無い! と思って済《す》ましているのだ。彼は至極善良な主人らしく、食卓の傍の畳に朝刊を拡げて三面記事を読み続けた。三面よりも、彼は当然職業案内の欄を探るべきなのに……。
こうして夫は欺き続けて来たのだ。三月の間というもの、職業《しごと》を職業をと、朝に出ては夜になって帰って来た。当然自分の負わなければならない経済上の責任を妻に負わして置いて、他に勝手な自分の生活を拓《ひら》いているのだ。共同生活内の一員が、微塵《みじん》も共同生活の責任を負わずにいて、他に自分の生活を築くということは、三枝子の場合、最も許しがたい気持ちだった。
同時に三枝子は、彼女の最も新しい友達である静枝の、あの夫に対しても、自分の夫へのそれと似た感情を抱かずにはいられなかった。そういう、共同生活の責任を負わずに、自身の生活を他に築きながら、共同生活の一員として済ましていることの許されているのは、或る国の特権階級だけではないか。
「あなた! 今日は、お出掛けにならないんですの!」
「あっ! 出掛けるんだ。」
彼は、忘れていたというようにして起き上がった。
「厭でも、乗りかけた船だから、仕方が無いわね。」
「うむ。」
彼女の言った皮肉が皮肉として通じないのだ。彼はそそくさと支度をして出て行った。
三枝子は、夫が出て行ってしまってから、あの時、何故《なぜ》、ばたばたと畳みかけられなかったのだろう? と、自分が経済上の責任を負いながら、いつも夫の前に頭のあがらないような自分を後悔した。
彼女は、不愉快な自分の気持ちを紛《まぎら》わそうとして、恵子の手を引いて分譲地の荒れ野原の方へ出て行った。
恵子は、母親の前に立って駈け歩いた。すると向こうから、姫苦蓬《ひめにがよもぎ》や荒地野菊《あれちのぎく》の雑叢《ざっそう》の間を、静枝が此方《こちら》ヘ歩いて来るのだった。静枝は女優のように着飾っていた。
「まあ、静枝さん! どこへいらっしゃるの?」
「…………」
静枝は顔を赧《あか》くして、腹を抱えるようなお辞儀をしながら、薄紫の縁取りをした桃色のハンカチで口を抑えた。
「遊びに、いらっして下すったの?」
「…………」
静枝は癖で、笑いながら頷《うなず》いた。
三枝子は静枝が自分の前へ来るまで、孔雀《くじゃく》のように着飾っている絢爛《けんらん》な彼女の着物を観察した。それが三枝子には一つの驚異だった。自分と同じ社に勤めていて、殆んど同じほどの給料を貰っていて、そして夫を養いながらどこからこんな余裕が湧くのだろう? 自分をあの社に紹介して引き入れてくれたほどだから、自分より静枝の給料の方が多いには相違ないが、そんな余分のある筈はない! 自分達に比べると、母親もなく子供も無いためなのかしら? と三枝子は思うのだった。
恵子は静枝の足|許《もと》までよたよた[#「よたよた」に傍点]と駈けて行った。
「まあ、恵子ちゃん、大きくなったのね。」
静枝はそう言って蹲《しゃが》んだ。
「静枝さん。ゆっくりして行っていいんでしょう?」
「ちょっと失礼するわ。」
「あら! どうして?」
「廻らなければならないところがあるのよ。」
「どこへいらっしゃるんですの?」
「約束があるのよ。ちょっと、この先に。――恵ちゃん、本当に大きくなったのね。」
静枝は恵子の肩に手を置きながら言った。
「やんちゃ[#「やんちゃ」に傍点]でしょうがないのよ。」
「おばちゃんに、接吻《キッス》をして頂戴よ。ねえ! 接吻をして頂戴よう。」
静枝は恵子の肩を軽く掴《つか》んで頬摺《ほおず》りをするようにしながら言った。
「ねえ! 接吻をして頂戴よう。厭なの! 厭ならいいわ。」
「静枝さん! 何をするの? そんなこと止《よ》して頂戴!」
三枝子は恵子をぐっとひったくった。
「まあ! どうして?」
「――どうして? もないわ。それを私に訊《き》くの?」
「だって、あたし、わからないわ。」
「私、何も知らないと思っているの? あなたとはもう、絶交よ!」
「絶交?」
「もちろんよ――接吻泥棒《キッスどろぼう》!」
「接吻泥棒?」
「知らない!」
併し三枝子は、驚いている恵子の手を引いて、自分の家の方へと、ゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]歩き出したのだった。――いくらでも闘ってやる!
三 媚を売る街
三枝子は宵から市内に出て行った。
勝手な自分の生活を持っている夫に対しては、最早《もはや》、自分だけがその責任を負っていなければならない筈が無いと思ったから
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