に出掛けて行って、いつのまにかこっそりと帰って来ては本に噛《かじ》りついているという具合だった。そしてどうかすると、大変遅くなってから帰って来るようなことも度々であったが、私はもちろんのこと、妻までが、最近は「どこへ行って来たんです?」というような質問はしないようになっていた。妻のそういう態度は、貞子に対してまで段々私と同じようになって来ることが感じられた。貞子もしばしば遅くなって帰って来るらしいのに、妻は決して「どこかへ廻ったの?」というような質問をしないらしかった。それが、峻の遅い時に限って、貞子もまた遅く帰って来るらしいのに、妻は気がついていたのかどうか、それに就いてはなんの一言も訊《き》かずにいるらしかった。
*
初秋の晩、私は一人だったので、玄関に鍵をかけて置いた。峻も貞子もまだ帰っては来なかった。私はそして「峻と貞子は一体どこを歩いているのだろう?」というようなことをぼんやりと考えていた。九時が過ぎてから、何方《どちら》かが玄関をがちゃがちゃと揺《ゆ》す振《ぶ》った。やがて「誰か開けて頂戴よ」という貞子の声がしたので、私は立って行って扉をあけてやったのであるが、むろん「どこを歩いていたんだね?」などとは訊かなかった。ただ、私は貞子の靴先を見ただけである。貞子の靴先は、夜露のためしっとりと濡れていた。そしてその上に、細かな褐色の秋草の顆《み》がいっぱいについていた。初秋の高原地帯の草原の中を歩くと、屹度くっついて来る顆《つぶら》である。私はそしてすぐ自分の書斎に帰った。峻はそれから一時間ほどして帰って来た。これは一晩中夜露に濡れて立っていようと、決して「誰かあけてくれ」と声をかけることの出来る青年ではない。ただ、無暗《むやみ》とがちゃがちゃさせていた。併し、貞子はどうしたのか立っては行かないので、私は仕方なく又立って行ってその扉をあけた。そして私はすぐに峻の靴先を視詰《みつ》めていた。やはり彼の靴先も露でしっとり濡れ、その上に秋草の顆《み》がいっぱいについていた。褐色の、楕円形の花のような、細かな細かなその顆《つぶら》は、貞子の靴先についていたのと、全く同じものであった。同じ草地からの顆《つぶら》であった。私はひどく明るい朗らかなものを感じさせられた。そして私は腹の底で「峻も貞子も、注意して靴先を拭って帰るものだよ」というようなことを言わず
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