秋草の顆
佐左木俊郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)言葉を交《か》わさずに
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)手|真似《まね》で語り合って
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はい[#「はい」に傍点]だって。
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寡黙と消極的な態度とは私達一族の者の共通性格と言ってもいいのだ。私は郷家に帰省して、二三日の滞在中、殆んど父母と言葉を交《か》わさずに帰って来ることが少なくなかった。父もまた、田舎《いなか》からわざわざ私達に会いに出て来ながら、妻の問いに対してほんの二言か三言の答えをするだけで、私とは殆んど口をきかずに帰って行くことが多い。別に私達親子の間の愛情が薄いからというわけではないのだ。私が、父の顔から父の言葉を聞くことが出来るのと同じように、父もまた私の顔から私の言葉を聞き取ってくれるのだ。私達はだからお互いに顔を見合わせればそれでいいのである。私達のそういう性格は、だが、しばしば他人からの誤解を受けて来た。他人から物事を頼まれると、それを断ることの出来ない性分《しょうぶん》なので、そういう場合には、いつも善良な人間のように思われるのであるが、消極的な態度がどうかすると傲慢《ごうまん》な人間として誤解されることがあるのだ。
*
併し、私達一族の者の間では、それが当然過ぎるほど当然の性格とされている。誰もそれに就いて疑惑を抱くようなことは無いのだ。従兄弟《いとこ》同士が沈黙を挟んで五六時間も対座することがある。叔父と甥《おい》とが、同じ家に棲《す》んでいながら、二週間も三週間も口をききあわずに過ごすようなことは決して珍しいことではない。だがやはり、叔父は甥に対して、叔父としての極めて普遍的な愛情を抱いているのだ。自分が読んで見て面白い本であれば、それを私の机の上に載せて置いてくれた。古い腕時計が自分には不用なものになって来ると、やはり、いつの間にか私の机の上に載せて置いてくれるのであった。そして叔父は又それだけで、別に「面白い本だろう?」とも「割合に時間が正確だろう?」とも訊《き》くわけではない。私の方からもまた、それに対して「有難う」とも「面白かった」とも言ったことは無いのだ。けれども、叔父が病気で入院をすれば、私はやはり毎日その病院へ出掛けて行った。併し「どんな
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