ていたスリの常習犯らしい。
「私だって生まれた時は普通の人間でした。私は仕立屋だったのですが。だんだんと世の中が、手先が器用だというだけでは食って行けなくなって来て、女房が病気しても医者にかける金もない有様で、女房はとうとう死んでしまいました。私はそれからスリをやり出したんです。ところが私は、死んだ女房のことを考えると、綺麗な着物を着ている金持ちの女が憎らしくて仕方がないんで、大抵そういう女のものを取っていたんですが、或る時、私は或る女のオペラ・バッグの中で、どういう仕掛があったもんか、この指を切り取られたんです。それっきりスリなど廃《よ》そうかと思いましたが、金持ちの女がああして、綺麗な着物を着ていることを考えると、そして死んだ私の女房なんか、毎日綺麗な着物を縫っていながらそれを着られもせず、ばかりではなく、結局は飯さえ食えなくなったんだと、それが一体どんな奴のためだと、思うと私は廃《よ》さなかったのです。
[#ここで2段組み、罫囲み終わり]
 彼女は朝刊から眼を離して部屋の隅を視詰《みつ》めていた。そして、彼女は二三カ月以前に、電車の中で、自働扉に指を噛まれたと言って血を流していた男のことを思い出していた。
[#地から2字上げ]――昭和四年(一九二九年)『文学時代』六月号――



底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
   1984(昭和59)年4月14日初版発行
初出:「文学時代」
   1929(昭和4)年6月号
入力:大野晋
校正:鈴木伸吾
1999年9月24日公開
2003年10月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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