指
佐左木俊郎
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鰐《わに》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから罫囲み]
−−
一
彼女は銀座裏で一匹のすっぽんを買った。彼女のそれを大型の鰐《わに》皮製のオペラ・バッグに落とし込んで、銀座のペーヴメントに出た。
宵の銀座は賑《にぎわ》っていた。彼女は人の肩を押し分けるようにしながら、尾張町の停留所の方へ歩いた。店を開きかけた露店商人が客を集めようとあせっている。赤、青、薄紫の燈光が揺れる。足音が乱れる。
「もしもし! 奥さん。」
彼女は誰かに呼びかけられたような気がして立ち止まった。彼女の肩に、無数の肩が突き当たり、擦り合って行った。鼠色の夏外套、鮮緑の錦紗《きんしゃ》。薄茶のスプリング・コオト。清新な麦藁帽子。ドルセイの濃厚な香気。そして爽かな夜気が冷え冷えと、濁って沈澱した昼の空気を澄まして行った。
錯覚だったのだ。誰も呼んではいなかった。鼠色のハンチングを眼深《まぶか》に冠った蒼白く長い顔の男が、薄茶の夏外套に包んだ身体《からだ》を、彼女の右肩に擦り寄せるようにして立っているだけだった。
彼女はその男から逃《のが》れるようにして、車道を越えて向こう側の舗石道《ペーヴメント》に渡ろうとした。電車がピストン・ロットのように、右から左へ、左から右へと、矢継ぎ早に掠《かす》めて行った。青バスが唸って行く。円タクの行列だ。彼女は急に省線で帰ることにした。円タクをやめて。
省線電車は割に混んでいた。併し彼女はどうにか腰をおろして、その左脇にオペラ・バッグを置くことが出来た。
神田駅に近付いたとき、彼女は、自分の左脇に腰をおろしている男が、顔全体で痛さを堪えながら指先を握っているのに気がついた。その指の間からはだらだらと血が滴っていた。
「まあ! どうなさったんです?」
彼女は、眉を寄せて、自分のハンカチを出してやった。
「あ、済みません。どうも、あの扉で……」
彼は礼を言いながら血に染まった指先をハンカチで包んだ。食指の一節はぐしゃぐしゃに切れて無くなっていた。
「まあ、もげたんで御座いますか。」
「え。あの扉でもって…… 神田ですね。や、どうも……」
男は戸口へ駈けて行った。鰐皮製のオペラ・バッグがその男の席に倒れた。彼女も、それを取
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング