山茶花
佐左木俊郎
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)顔を顰《しか》めたり
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)水|洟《ばな》をすすりながら
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ふご[#「ふご」に傍点]を取って、
−−
平三爺は、病気で腰が痛むと言って、顔を顰《しか》めたり、自分で調合した薬を嚥《の》んだりしていたのであったが、それでも、山の畠に、陸稲《おかぼ》の落ち穂を拾いに行くのだと言って、嫁のおもんが制《と》めたにもかかわらず、土間の片隅からふご[#「ふご」に傍点]を取って、曲がりかけた腰をたたいたりしながら、戸外へ出て行った。
「落ち穂なんか、孩子《わらし》どもに拾わせたっていいのだから、無理しねえで、休んでればいいんですのに、爺《じん》つあんは……」とおもんは繰り返した。
「ほんでもな、ああして置くとみんな雀に喰《か》ってしまう。一かたまりの雀おりっと、いっぺんにはあ、一度団子して食う分ぐらい、わげなく喰《か》れでしまうがらな。――まあ、なんぼでも拾って来んべで。孩子《わらし》どもだのなんのって言ってっと、まだはあ、長びく原因《もと》で、去年のように、拾わねえうぢに、みんな雀に喰《か》ってしまうがら……」
併し平三爺は、そのまますぐに出掛けて行くのでは無かった。――祖先から承《う》け継《つ》いだ財産を、自分の代に、ほとんど無くしてしまったので、爺は、伜《せがれ》への憂慮から、働き続けよう、働き続けようと努力しているのではあるが、しかし、身体《からだ》の方も大分まいっているのだし、気持ちの上では、より以上に休息を需《もと》めているのであった。
殊に今は、疝気《せんき》を起こしているのだから、爺は、仕事への倦怠と、伜への憂慮との、この二つの間にもだもだしているのである。それで爺は先ず、大きなごつごつの手を両方とも、曲がりかけた腰の上に置いて、浅い霜が溶けてぴしゃぴしゃと湿っている庭を、真直ぐに山茶花《さざんか》の木の下へやって行った。
「おもん。一枝《ひとえだ》、婆あの位牌《いはい》さあげて呉《け》ろ。」
爺は、そんなことを言いながら、しばらく山茶花《さざんか》の木の下で、うろうろしていた。
伜の長作は、その時、納屋《なや》で稲を扱《こ》いでいたのであったが、父親が、おもんが制《と》めるのを肯《き》かずに出て行ったらしい気配なので、世間体《せけんてい》などを考え、どうしても引き止めなければならないと思って庭へ出て来た。
「爺《じん》つあん。そんな無理なごとしねえで、少し休んだらよがあめんがな?」と長作は、やや語調を強めて言った。
「無理ってほどでもねえげっと……拾わねえうぢに、みんな、雀に喰《か》ってしまうべと思ってや。せっかくとったの……」
「落ち穂ぐれえ喰《か》ったって。――そんより、医者さでも掛かるようになったら、なんぼ損だかわかんねえべちゃ、爺《じん》つあんはあ!」
「うむ。それもそうだな、ほんじゃ、おら、今日は、休ませてもらうべかな。」
爺は、眼のあたりを少し赤くするようにして、息苦しい呼吸の間から、申しわけでもするように、吐切《とぎ》れとぎれに言った。そして、また腰をたたいたり、何か言い残したことがあると言うように、口をもぐもぐさせながら、とつおいつ山茶花を眺めていて、容易に家の中に這入《はい》ろうとはしないのであった。
「なあ長作。この山茶花は、ふんとにいい花、咲くちゃなあ!」
「…………」
長作は、爺の方を、白眼で、ちらりと見たきり、なんとも答えずに、腰から煙草入れを抜き取って、煙草に火をつけた。
爺は、ひどく間の悪さを感じた。そこで、足もとへ唾《つば》をして、それから山茶花のまわりを一巡した。
「なんて言ったって、こんだけの山茶花、この界隈《かいわい》に無《ね》えがら……」
「山茶花など、どうだって……それより、早ぐ寝で休んだらいかんべな、爺つあんは。」
長作は、煙草の煙を吐きながら、また、爺の方へ横目を遣った。そして、そこには重々しい雰囲気《ふんいき》が醸《かも》し出された。
爺は、伜の気持ちを繕《つくろ》うようなことを、何か言い出そうとして、口を二三度動かしたが、ただ、口を動かし得たに過ぎなかった。さらに爺は、この山茶花を売って、いくらでも生計《くらし》のたしにしたら……こう言おうと思ったが、それも思っただけで、口に出す前に、伜が、どういう返事をするかが気になった。
「この忙しい収穫期《とりいれどき》、休んだりして……」爺は申しわけのように呟《つぶや》きながら家の中へ這入って行った。
「稼いだって、それ以上に損するようなごっちゃ、なんにもなんねえがら…… まあ、ゆっくり休ませえ。」
長作は、爺の後に跟《つ》いて家の中へ這入りながら、こんなことを言った。この言い草は、すでに、爺は幾度も幾度も繰り返して聞かされた。それで爺は、今では、若い時分、自分が屈指《くっし》の稼人《かせぎて》だった自慢はもう決してしなくなったのである。
平三爺は、事実、村でも屈指の稼人《かせぎて》であった。また、非常なお人よしでもあった。そして爺は、よく他人から騙《だま》された。取引をすると、きっと、損をした。他人の借金の保証人になっては、借り主の代わりに払わされたことも度々あった。そんなわけで、爺は、他人よりも余計働いたにもかかわらず、親から承《う》け継《つ》いだ財産まで、すっかり無くしてしまった。
そのことを気にしているために、爺は、折々、伜までが自分から離れて行ったように思って、非常に寂しい気持ちになることがあった。その思いは、年を重ねるに従って、だんだん強くなって行った。伜夫婦は、何かにつけて優しくしてくれるのだが、それをさえ、爺は、その底の方に、何かしら意地の悪いものがあるように感ずることがあった。伜に戸主を譲って、一時、ほっとした気持ちになった爺は、また根《こん》をつめて働き出した。伜は、財産の少ないのを、自分が無くしたのを、面白くなく思っているのに相違ねえ。いくらでも、この穴を埋めてやらねばならないと思ったからであった。
併し、伜の長作は、決して親の意をないがしろにするようなことはなかった。世間への体裁《ていさい》からばかりでなく、実際に、六十の坂を越してから、なお、働き続けねばならない自分の親を、彼は心の底から気の毒に思って、出来るだけの慰撫《いぶ》を心掛けているのであったが、なぜか長作は、それを露骨に現すことは出来なかったし、そういう言葉を口にすることは、なおさら出来ない性分《しょうぶん》だった。ばかりでなく、爺があまり馬鹿馬鹿しい苦労などをする時には、むしろ、罵《ののし》りに近い言葉で制《と》めることがあった。
平三爺は、他所《よそ》の年寄り達などに比べると、自分が、非常にいたわられているということを知っていながら、伜の心の底に、意地の悪いものがあるように感じた時や、罵りに近い言葉を受けた時には、やはり、非常に寂しい気持ちになった。爺が、山茶花を大切にし、それに自分の慰めを繋《つな》ぐようになったのは、それからのことであった。その山茶花は、まだ相当にやっていた頃に、婆さんの植えたものであったが、平三爺の、長い労苦の生涯に、慰めのものとして残ったのは、僅かに、この一本の山茶花に過ぎなかった。この一本の山茶花のほかの何ものをも残し得なかった生涯、六十何年間の、血のにじむような、労苦に満ちた人生だったとも言えるのである。
重苦しい雰囲気の中で、三人は黙り続けていたが、長作は煙草入れを腰にさして炉傍《ろばた》を立った。
「爺《じん》つあんの、薬さ混《ま》ぜる砂糖、万の野郎が、みんな舐《な》めでしまって無くなったげっとも……」と、おもんは、相談するように言った。
「砂糖なんかいらねえぜ、おら。薬だもの、嚥《の》み辛《づら》いのなんか、仕方がねえ。」
「卵が、なんぼか溜《た》まってる筈だべちゃ。そいつでも売らせてや。うむ、万の野郎に売らせで。」
長作はこう言い残して、また納屋の方へ出て行った。
平三爺は、重い溜め息を一つ吐《つ》いて、幾日も敷き続けられてある万年床へと立って行った。おもんも跟《つ》いて行って、破れて綿のはみ出ている布団《ふとん》を掩《おお》い掛けてやるのであった。そしてなお、上から押し付けたり、その辺《へん》に脱ぎ捨てられている衣類を、なんでも、手当たり次第に掩い掛けてやるのであった。
「もう沢山だ。おもん、こんで沢山だ。」
「ほんじゃ、ゆっくり休ませえ。薬も拵《こさ》えで置ぎしから。」
おもんはこう、水|洟《ばな》をすすりながら言って、台所へ戻った。これから、彼女も稲を扱《こ》かなければならなかったのだ。
平三爺が、床にもぐり込んでから間もなく、町の操三郎《そうざぶろう》という男がやって来た。以前、鉈《なた》や鎌などを売りに、この村へ出入りしていたが、それから三四年姿を見せずにいて、最近また、稲扱《いねこ》き機械を売りに歩き廻っていた。操三郎は、永いあいだ目をつけていた長作の家の山茶花を、この前に来た時は、売れと言っていたが、今日は、稲扱き機械と取り換えてくれるようにと言って、執拗《しつよう》に頼むのであった。
「駄目だ! 機械は、ほしいにあ、ほしいが、この木は、爺《じん》つあまの……」と長作は、同じことを繰り返した。
「ほだから、まず、爺つあまに訊いてみせえ。」
「駄目だったら、爺つあまが、今、病気だし、この木は、大切にしてんのだから。」
「ほんじゃ、爺つあまに、おれ、直接《ずか》に、訊いで見んべかなあ?」
操三郎は、山茶花の樹の下から、平三爺の寝ている部屋の前の方へ歩いて行った。長作は、手をかけてまで引き止めるわけに行かないので、ただ、その男の後に跟《つ》いて行った。長作にしては、その一本の山茶花よりも、稲扱き機械の方を欲しいのは勿論だった。しかし長作は、父親の気持ちをないがしろにしてまでは望み得なかった。
「此方《こっつ》の家の爺つあま。病気はどうでがす?」
平三爺は、なんとなく、聞き覚えのある声のように思って、寝床の上に腹這いになった。
「ね、此方《こっつ》の家の爺つあま。――」と操三郎は、縁側へ長くなり、顔を障子の側まで持って行った。その二度目の声で、平三爺は、稲扱き機械を売って歩く、町の操三郎だということがわかった。
「爺つあん!」と長作が、そこの障子を開けた。
「ね、此方の家の爺つあま。」操三郎は縁側へ腹這いになって、平三爺に話しかけた。「機械一台ど、どうでえす? あの山茶花の樹ど、取《と》っ換《け》えまえんか?」
「それさな?……」
平三爺は、口をもぐもぐと動かしながら、げっそりと肉の落ちた面を伏せて考え込むようにした。そして、やがてまたその窶《やつ》れ果てた血の気のない顔を上げ、伜の長作の顔に見入りながら言うのであった。
「俺はどうでもいいげっとも、長作あ?……」
「長作氏は、ほしがって、ほしがって。――一台の機械で、五人分も仕事が出来んのだから、うんとほしがっていんのだげっとも、やはり、爺つあまさの遠慮で……」と操三郎は、横から、少し渋味のある声で饒舌《しゃべ》りたてた。
長作等には、実際、稲扱き機械は強い誘惑を持たずにはいなかった。一台の機械に、二人の人間がついていれば、五人分の仕事は楽に出来る。誰にだって使える機械だし、それに、米も別段いたまないし、減りもしない。その上、仕事のあがりが大変に綺麗に行く。――こういう条件を聞いては、長作等はたまらなかった。稼手《かせぎて》が少なくて、仕事に追い立てられている長作である。口から手が出るような思いがするのも、決して無理からぬことであった。
「ほんじゃ、長作せえいいごったら、取り換《げ》えでくんつえ。」と言って、平三爺は、痩せこけた顔を枕に押し当てた。
「なあ、長作氏。ほんでは、俺んどこにあるうぢの、一番にいい機械寄越しから……」
「ほんでも爺つあん。爺つあんが、なによりの楽しみにしていだ山茶花。―
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング