》いて家の中へ這入りながら、こんなことを言った。この言い草は、すでに、爺は幾度も幾度も繰り返して聞かされた。それで爺は、今では、若い時分、自分が屈指《くっし》の稼人《かせぎて》だった自慢はもう決してしなくなったのである。

 平三爺は、事実、村でも屈指の稼人《かせぎて》であった。また、非常なお人よしでもあった。そして爺は、よく他人から騙《だま》された。取引をすると、きっと、損をした。他人の借金の保証人になっては、借り主の代わりに払わされたことも度々あった。そんなわけで、爺は、他人よりも余計働いたにもかかわらず、親から承《う》け継《つ》いだ財産まで、すっかり無くしてしまった。
 そのことを気にしているために、爺は、折々、伜までが自分から離れて行ったように思って、非常に寂しい気持ちになることがあった。その思いは、年を重ねるに従って、だんだん強くなって行った。伜夫婦は、何かにつけて優しくしてくれるのだが、それをさえ、爺は、その底の方に、何かしら意地の悪いものがあるように感ずることがあった。伜に戸主を譲って、一時、ほっとした気持ちになった爺は、また根《こん》をつめて働き出した。伜は、財産の少ないのを、自分が無くしたのを、面白くなく思っているのに相違ねえ。いくらでも、この穴を埋めてやらねばならないと思ったからであった。
 併し、伜の長作は、決して親の意をないがしろにするようなことはなかった。世間への体裁《ていさい》からばかりでなく、実際に、六十の坂を越してから、なお、働き続けねばならない自分の親を、彼は心の底から気の毒に思って、出来るだけの慰撫《いぶ》を心掛けているのであったが、なぜか長作は、それを露骨に現すことは出来なかったし、そういう言葉を口にすることは、なおさら出来ない性分《しょうぶん》だった。ばかりでなく、爺があまり馬鹿馬鹿しい苦労などをする時には、むしろ、罵《ののし》りに近い言葉で制《と》めることがあった。
 平三爺は、他所《よそ》の年寄り達などに比べると、自分が、非常にいたわられているということを知っていながら、伜の心の底に、意地の悪いものがあるように感じた時や、罵りに近い言葉を受けた時には、やはり、非常に寂しい気持ちになった。爺が、山茶花を大切にし、それに自分の慰めを繋《つな》ぐようになったのは、それからのことであった。その山茶花は、まだ相当にやっていた頃に、婆さんの植えたものであったが、平三爺の、長い労苦の生涯に、慰めのものとして残ったのは、僅かに、この一本の山茶花に過ぎなかった。この一本の山茶花のほかの何ものをも残し得なかった生涯、六十何年間の、血のにじむような、労苦に満ちた人生だったとも言えるのである。
 重苦しい雰囲気の中で、三人は黙り続けていたが、長作は煙草入れを腰にさして炉傍《ろばた》を立った。
「爺《じん》つあんの、薬さ混《ま》ぜる砂糖、万の野郎が、みんな舐《な》めでしまって無くなったげっとも……」と、おもんは、相談するように言った。
「砂糖なんかいらねえぜ、おら。薬だもの、嚥《の》み辛《づら》いのなんか、仕方がねえ。」
「卵が、なんぼか溜《た》まってる筈だべちゃ。そいつでも売らせてや。うむ、万の野郎に売らせで。」
 長作はこう言い残して、また納屋の方へ出て行った。

 平三爺は、重い溜め息を一つ吐《つ》いて、幾日も敷き続けられてある万年床へと立って行った。おもんも跟《つ》いて行って、破れて綿のはみ出ている布団《ふとん》を掩《おお》い掛けてやるのであった。そしてなお、上から押し付けたり、その辺《へん》に脱ぎ捨てられている衣類を、なんでも、手当たり次第に掩い掛けてやるのであった。
「もう沢山だ。おもん、こんで沢山だ。」
「ほんじゃ、ゆっくり休ませえ。薬も拵《こさ》えで置ぎしから。」
 おもんはこう、水|洟《ばな》をすすりながら言って、台所へ戻った。これから、彼女も稲を扱《こ》かなければならなかったのだ。
 平三爺が、床にもぐり込んでから間もなく、町の操三郎《そうざぶろう》という男がやって来た。以前、鉈《なた》や鎌などを売りに、この村へ出入りしていたが、それから三四年姿を見せずにいて、最近また、稲扱《いねこ》き機械を売りに歩き廻っていた。操三郎は、永いあいだ目をつけていた長作の家の山茶花を、この前に来た時は、売れと言っていたが、今日は、稲扱き機械と取り換えてくれるようにと言って、執拗《しつよう》に頼むのであった。
「駄目だ! 機械は、ほしいにあ、ほしいが、この木は、爺《じん》つあまの……」と長作は、同じことを繰り返した。
「ほだから、まず、爺つあまに訊いてみせえ。」
「駄目だったら、爺つあまが、今、病気だし、この木は、大切にしてんのだから。」
「ほんじゃ、爺つあまに、おれ、直接《ずか》に、訊いで見んべかなあ?」

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