! 私しゃ……」
 万は、どぎまぎした。何を歌ってよいかわからなかった。それに、(先手を打ってやがるな)と思うと、福禄寿の方が気になって仕様がなかった。
「次の太夫!」
 激しい催促が始まった。
「早く始めねえか?」
「私しゃ……私しゃ……私の芸はその……」
 万はそう言い淀《よど》んでいるうちに、仮装の福禄寿は、銀の杯の三つ目を、袖の中に持ち込んだ。
「私しゃ、芸無し猿でがして、何も出来ねえんでがすが、ただ一つ、手品を知ってますで……」
 万はそう言って座敷の真ん中へ出て行った。
「手品?」
「それは面白い。」
 座敷は急に騒《ざわ》めき立った。
「なんでもいいでがすが、縁起のいいように、こっちの家の宝物同様の銀の杯でやることにしますべえ。」
 万はそう言いながら周囲に手を伸ばして、膳の前に散らかっている三つの銀の杯を拾い取った。
「さあさ! こっちを御覧下せえ。ここに三つの杯があります。私しゃ、今これを襤褸《ぼろ》着物の懐中《ふところ》へ入れます。」
 万はそう言って次から次へと杯を懐中へ入れた。
「そこで、私が号令をかけますと、私の懐中の中の杯は、私の命令したところへ参るのでごぜえます。一! 二! 三!」
 万はそう言って手を振った。
「さて、あの杯は、その向こうにおいでになる福禄寿のところへ、参っているはずであります。福禄寿の懐中を改めて下せえ。」
 万はそう言ってお辞儀をした。
 一座の興趣《きょうしゅ》は、仮装の福禄寿に集まって行った。福禄寿は早速、その周囲の二、三人の手で帯を解《と》かれた。同時に三つの杯が転がり出た。万は急霰《きゅうさん》のような拍手に包まれた。
[#地から2字上げ]――昭和八年(一九三三年)『大阪朝日新聞』一月二十二日号――



底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
   1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:湯地光弘
1999年12月6日公開
2005年12月20日修正
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