ろし吹きなびく
 臥牛城下に生をうけ
 残されたりし英雄の
 ……」
 私達は子供の時分、そんな歌を歌った。
 併し、私の生まれた部落は、北方の丘陵に近く、南方の山脚を洗う荒雄の水音を、微《かす》かに聞く地点なのである。
 南方の丘陵が武将の旧跡なら、北方の丘陵は宗教の丘である。即ち聖徳太子の四天王寺の一つが今の地名をなしている。豪壮な伽藍《がらん》は、幾度も兵火にあいながら、私達の子供の時分までは再建を続けられていたのだそうだが、坊主が養蚕で火を出してから、今では仮普請《かりふしん》の小さなものになってしまった。当時、聖徳太子が自ら刻んだという如意輪《にょいりん》観音の像だけは、寺院の近くに、今にその堂宇《どうう》を残しているのであるが、最近、それが聖徳太子の作ではなく運慶《うんけい》の作であることが鑑定され、近く国宝に編入されるという噂である。もう一つ、ここには守屋大臣の碑が雨ざらしにされている。十五六年前、楠木正成の筆らしいと騒がれたこともあったが、それはそのまま立ち消えになってしまった。
 とにかく、私を十五の歳まで育てたこの部落は、背後に畑地の多い丘陵があり、前面に水田が開け
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング