宛てた遺書の一部に過ぎないものだった。
高津《たかつ》先生。長い間いろいろとお世話さまになりました。いつまでもいつまでも先生の膝下《しっか》にお導きを承りたく願っていたわたしではありましたが、悪戯《いたずら》好きな運命の神さまは辛《つら》い永久の別れを命ずるのでございます。
しかし、わたしはお別れに臨んで、悪魔の杖《つえ》によって隠されたる原因をはっきりと申し上げておきたく存じます。わたしの教え子の千葉房枝がみずから果てて間もないのに、わたしがまた同じ運命を辿《たど》りましたなら、さぞかし世間の人々を驚かし、一つの謎《なぞ》を残すに相違ないと存じますから……。
高津先生。先生はわたしがこういう道を選びましたら、やはりこの原因は吉川訓導の蟇口に絡んでいるのだとお思いでしょうか。そうお思いになるのもご無理のないことでございます。そして、直接には実にその蟇口に原因を発しているのでございます。一個の暮口、十円足らずの金銭がこうして二つの魂を奪い、生命を攫《さら》っていくのかと思いますと、膚《はだえ》に粟《あわ》の噴くのを覚えます。
しかし、その表面の物質的なものの裏に、もっともっと複雑した精神的なものがあったのでございます。そしてそれは、ある教師の不道徳な行為から出発しているのでございます。そのある教師とは、やはり先生の膝下に教鞭《きょうべん》を執っている吉川訓導なのでございますが、わたしはその理由を詳しく証明いたしたくはございません。彼のやがての結婚が、もっとも的確にこれを証明してくれるからでございます。
わたしは先生の膝下にまいりましてから間もなく――甚だお恥ずかしいことですが、これはわたし一個人に関することでなく、千葉房枝の名誉にも関することですから、もう何もかも申し上げてしまいます――わたしは吉川訓導と、深い深い恋に落ちたのでした。そしてわたしたちは、お互いの愛情を交換すべく、一つの方法を思いつきました。わたしは雨の降らない日の休業時間には、決して生徒を教室の中に置きませんでした。そして吉川訓導は、シャツ一枚になって生徒とともに運動をいたしました。この二つの新しい運動奨励法は、校長先生をはじめ他の先生がたからたいへんほめていただいたのですが、吉川訓導はその洋服を、きっとわたしの受持ち教室の窓に投げかけておいたことをお気づきでございましたでしょうか。わたしたち、お互いの愛情の交換は、その洋服のポケットの中で行われていたのです。吉川訓導はポケットの中に手紙を入れて、その洋服を運動場のほうから窓へかけていく。わたしは生徒のいない教室へ入っていって、内側からそのポケットの中の手紙を取り、自分の手紙を残してきたのでした。そしてわたしたちの恋愛は、六か月にわたって続いていきました。わたしはその間に、自分のすべてを吉川訓導に捧《ささ》げたのでした。しかし吉川訓導は、彼のすべてをわたしに与えていたのではありませんでした。
最後に吉川訓導は、自分たちはどうしても別れねばならないことをわたしに告げてまいりました。許嫁《いいなずけ》の方があり、近々のうちにどうしても結婚しなければならないからとの理由でございました。わたしは潔く諦《あきら》め、彼の卑劣な過去を許してやろうと考えたのでございます。しかしそれと同時に、卑屈な吉川訓導は許すことのできない不道徳な行為をしていたのでございます。その卑屈な陰険な行為こそが純情な千葉房枝を殺し、わたしにこういう道を選ばせることになったのでございます。
わたしが吉川訓導から、彼の結婚を告げた手紙を受け取ったとき、ちょうど千葉房枝は頭が痛むというので教室に休んでおりました。そして彼女は、見るともなしにわたしが吉川訓導の洋服のポケットを探っていたのを目撃して、わたしが何かものを取っているものと思ったのでございます。そしていよいよ蟇口のなくなった騒ぎになりますと、純情な彼女はわたしを案ずるのあまり、とうとう脳貧血を起こして倒れたのでございます。それを、なんと愚かなわたしの錯覚でございましたでしょう? きっと彼女がその蟇口を取ったものと思い込み、まるで拷問にかけるようにして訊こうとしたのでございます。しかし、純情であくまでわたしを慕っていた彼女は、とうとうわたしを罪人にすることができずにみずから自分の身を殺していったのでございます。(千葉房枝の純情は、彼女が彼女の父親に書き残した手紙をお読みくださいませ)
そして、千葉房枝がわたしの名誉を気づかいながら書いた遺書によりますと、吉川訓導の蟇口はわたしが取ったことになっておりますが、前にも申し上げましたように、それは、わたしがポケットから手紙を取ったのを目撃した彼女の錯覚で、実はわたしでもなかったのでございます。その名誉はわたしが死をもって証明すると同時に、さらに的確に、吉川訓導の近々に挙げられる結婚が証明してくれることをわたしは信じております。と申しますのは、吉川訓導はわたしがそのポケットを探ることを知っていて、自分の蟇口がなくなったという穽《わな》を構えて、わたしをその無実の罪に陥れ、自分からわたしというものを有無を言わせずに引き裂こうとしたのでございました。
高津先生。こうして、彼の卑劣な虚構が純情|無垢《むく》の千葉房枝を殺してしまいました。わたしはこれから、気の毒なかの少女を慰めるべく、彼女の後を追ってまいります。どうぞわたしに代わり、吉川訓導の卑屈な不道徳極まる行為を責められ、哀れな少女千葉房枝の名誉を世の中の人々にお告げくださいますようお願いいたします。
わたしのこの遺書と、千葉房枝が彼女の父親に宛てた遺書とを卑劣な吉川訓導の目に晒《さら》して、彼の卑屈にも不道徳極まる精神を刺激し、神聖な教育界から彼のごとき人間を除き、純情無垢の児童の将来と幸福とを誤りませんよう、お別れに当たりくれぐれもお願いいたしておきます。
鈴木女教員が高津校長に宛てた遺書には、だいたいこういう意味のことが書かれていた。
9
鈴木女教員の葬式のあった晩、吉川訓導は高津校長の自宅へ呼ばれていった。
「吉川くん、ほかじゃないが、千葉房枝の自殺と鈴木女教員の自殺についてのことだ。しかし、ぼくの口からはなにも言いたくない。まあ、これを読んでくれれば分かる」
高津校長はこう言って、吉川訓導に鈴木女教員が自分に宛てた遺書を読ませた。
読んでいくうちに、吉川訓導の顔色はだんだんと変わっていった。その手が小刻みに顫えた。彼は唇を噛んでそれを読みつづけた。
「校長先生。いかにも卑劣なようですが、事実として、この鈴木女教員の遺書の中に一か所だけ、弁明しておかなければならないところがあります」
彼は読み終わると、顫える声で言った。
「この蟇口のことですが、これは事実なくなったんで、決してわたしの意識的にやった卑劣な手段じゃないんです。意識的にこういうことをやるくらいなら、わたしから結婚のことを言ってやるはずはありませんから……」
「しかしだね、それはきみの言うとおりとして、学校としての責任をどうするんだね」
「わたしと鈴木女教員の恋愛、つまり自分たちがポケットの中で手紙を交換したことは、発表していただいても仕方がありません。二人の自殺がそこにあるのですから。そしてわたしは、責任上教育界から身を退《ひ》くつもりです」
校長はそのことについて、なにも言わなかった。吉川訓導が教育界から身を退くということを止めもしなかった。そして、その事件の内容の一部が発表されたに過ぎなかった。
それから一か月ほどして、鈴木女教員が言ったとおりに吉川訓導は結婚式を挙げたが、その時は彼は小学校の教師ではなく、ある山里の豪農の若主人だった。結婚の予定を決して変更しなかったのは、自分の卑劣を覆い隠そうとしているのだと思われたくないがためだった。鈴木女教員の遺書の事実は肯定し、無実として否定すべきところを否定したと思われたいという気持ちから、無理にも予定どおりに鈴木女教員の言ったとおりにしたのだった。
鈴木女教員の代わりの教員が来、吉川訓導の代わりの師範学校出の先生が来て、丘の中腹の学校は元どおりの、内に波瀾《はらん》を孕《はら》んだ表面の平和を続けていった。
運動場が雪にうずめられ、教室の中の火鉢のほとりでおりおり、生徒たちの間に鈴木女教員と千葉房枝のことが話されたりした。
雪が消えて畑の土が温かくなってくると、高等科の生徒はまた農業の実習に引き出された。堆肥で馬鈴薯《ばれいしょ》を植え付けようというのだった。
高津校長がそれを教えていた。
「先生、この堆肥の中に蟇口がありました」
生徒の一人が、高津校長のところへその蟇口を持っていった。
もはや生徒らは、去年の秋のあの事件を忘れているのだった。
「うむ、どれ」
校長は怪訝そうに眉《まゆ》を寄せてそれを受け取った。
その蟇口の革は鋭い歯で噛まれたらしく、ぐしゃぐしゃに傷んでいた。中には五円札が一枚、一円札二枚、それから銀貨や銅貨を取り混ぜて約八円ばかりの金が入っていた。が、その札はぐしゃぐしゃと何かに噛まれたに相違なく、ほとんど穴だらけになっていた。
そして一枚、同じように歯の跡のついた本屋の受取りが入っていたが、それには、
『吉川先生さま』
と書いてあった。
「あ、これは吉川先生の蟇口だ。堆肥を作るときもっとよく切り返していれば、あの時すぐ見つかったのに……道理で悪い堆肥だと思ったら、そんな乱暴な切り返しをしているから。……堆肥というやつは切るときに、こういうものが入っていてもすぐ見つかるくらいに切り返さなければいけないんだよ」
高津校長は生徒たちに言って聞かしたのだった。
「田中くん、だったかな、あの吉川先生の洋服、犬が咥えて落としたのを見つけて窓へかけてやったというのは? きみがあの時、ついでにこの蟇口を見つけてくれればなにも問題は起こらなかったのにな」
高津校長は寂しい微笑を浮かべて言った。
「とにかく、これを吉川先生のところへ持っていって、安心させてやらなければいけない。気にかけているんだろうからな」
こういって、高津校長はその晩、吉川先生を訪ねていった。
高津先生は隣村へ行くその汽車の中で、当時のことを追想していた。
10[#「10」は縦中横]
学校の運動場に生徒がいなくなると、犬がのそのそと入ってくることは珍しいことではない。
近所の農家の子犬が第七学級の教室の窓の下を通ると、窓から黒い洋服がぶらさがっていた。その詰襟の垢《あか》のついたカラーは三日月形になって覗《のぞ》いていた。
三日月形というよりも、魚の形に近かった。
色彩が鰊《にしん》に似ていた。
とにかくも子犬は魚が引っかかっていると思った。子犬はその魚に跳びついて咥えた。一緒に洋服が落ちてきた。意外にも魚は魚の味を持っていなかった。
咥えて二、三度左右に振ってみたが、やはり魚の味は出てこなかった。
咥えて振り回して歩いているうちに、子犬は蟇口を発見した。洋服を咥えて振り回しているうちに、そのポケットから落ちたのだった。
子犬は一片の肉が落ちていると思った。貪《むさぼ》るようにして噛んでみた。
これはカラーよりはいくぶんの味があったが、いくら噛んでも肉の味は出てこなかった。
そのうちにふたたび詰襟のカラーが目についた。子犬は味のない肉を捨てて、魚のほうへ行った。そこへ一人の少年がばたばたと走ってきた。
田中だった。
「この畜生! この畜生!」
子犬は追われて魚を置いて逃げた。
「いつでも来やがる、この畜生め!」
田中はなおも追いかけた。その時、田中の蹴った落ち葉が蟇口を覆い隠してしまった。子犬を追っていった田中は戻ってきて、洋服を窓にかけた。
そこへ大勢の生徒が出てきた。吉川先生が落ち葉を集めて畑のほうへ運ぶように命令した。
落ち葉の下になっていた蟇口はその時、落ち葉と一緒に運ばれていったのだった。
底本:「恐怖城 他5編」春陽文庫、春陽堂書店
1995(平成7)
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング