しまったのなら、ただ正直にそのことを先生に話しなさい。みんな先生がいいようにしてあげるから……あなたが正直に話しさえすれば、お金だって先生が出してあげてもいいわ」
房枝は泣きだしそうな顔をした。そして、何か言いたそうに唇をひくひく動かしたが、そのままなにも言わずに、顔を伏せてしまった。
「房枝さん、あなたはどうして正直に言えないの? ではいいことよ。あなたのお父さんに来ていただいて、何もかもみんなお話しするから……」
「先生」
房枝はそう言ったまま、そこへ倒れてしまった。
拷問というほどのことではなかったのだが、房枝はそれをひどく突き詰めて考えたのだった。そして、二度までも軽い脳貧血を起こした。しかし、房枝はそのまま家に帰されなかった。そしてその夕方、房枝の父親が学校に呼ばれた。校長と首席訓導の吉川先生と、受持ち教員の鈴木先生にそれに房枝の父親が加わった四人で、房枝の口からなんらかの言葉を引き出そうというのだった。
「お房! おめえどうしても言わねえんなら、おめえの口を引き裂いてしまうぞ!」
父親がこう言って房枝の肩に手をかけた。
「まあ、まあ、そうまでしなくても……」
校長は父親を宥《なだ》めて自分でいろいろと訊いてみたのだったが、房枝の口は錆《さ》びついたドアのように動かなかった。固い決心の表情で噛《か》み締められているのだった。
「お房! おめえなぜ黙ってるんだ?」
房枝の父親は掴みかかろうとするのだった。
校長はそれを押し止《とど》めて言うのだった。
「とにかく、こうなってはどんなことをしたって訊こうなんて無理ですから、二、三日の間、鈴木先生のところへ預けることにして、学校も休ませておいて、よく気を静めさせたら、あるいは自分から言うかもしれませんから」
「意地っ張りな! ほんとに」
「では、千葉さん、あなたはお帰りになってください。房枝さんは今夜から鈴木先生のところへ泊めてもらうことにして……鈴木先生も房枝さんを特別かわいがっていたようですし、房枝さんもことに鈴木先生を慕っているようですから。……かえってそのほうが怜悧《れいり》な方法だと思いますから……」
6
鈴木女教員の手に預けられた房枝は、その下宿の一室にほとんど幽閉された形で一週間を送った。その間を房枝はろくろく食物も摂らなければ、一言の言葉も口に出さなかった。
そして、房枝は一週間目に、鈴木女教員が学校へ出ていったあとで、その下宿の二階の鴨居《かもい》に自分の赤い帯をかけて、みずから縊《くび》れて死んだのだった。
房枝の死体をいちばん先に見つけたのは、その素人下宿の女主人だった。机の上に二本の手紙が残されてあった。一本は鈴木女教員に、他の一本は父親に宛《あ》てたものだった。
父親に宛てた房枝の遺書は意外な、あまりにも意外なことを物語っていた。
お父さま。いろいろご心配をかけて済みませんでした。お父さまがこの手紙をご覧くださるときには、わたしはもう死んでいるのですから、何もかもみんな申し上げておきます。しかし、これはお父さまに、わたしがどんな子供であったかを知っていただくためにだけ申し上げるのですから、どなたをも責めないでください。
わたしはどんなにそれが欲しいからとて、他人《ひと》さまのものをとるような子供ではありませんでした。わたしは吉川先生の蟇口をとった人を、ちゃんと知っているのです。しかし、その人はわたしのいちばん好きな、わたしのいちばん尊敬している方なのです。そしてまた、わたしをいちばんかわいがってくださった方なのです。お母さまのないわたしを、お母さまと同じようにかわいがってくださった方なのです。ですからわたしは、お父さまとその方をこの世の中でいちばん好きだったのです。もしかりに、お父さまが他人さまのものをとったことをわたしが知っているとして、わたしの口からお父さまの名を申し上げられるでしょうか? どんなに酷《ひど》い目に遭わされたとて、たとえ八つ裂きにして殺されても、それを申し上げられないことはお父さまもご承知くださることと存じます。あの時に、わたしはお母さまのないわたしを、お母さまのようにかわいがってくださった方のことを、どうしても申し上げられませんでした。
しかし、わたしはこれから死んでいくのです。お父さまがわたしのことについて安心してくださるように、何もかも申し上げてまいります。吉川先生の蟇口をとったのは、鈴木先生でございます。
(これは本当に、だれにも話さないでください。そして、やはりわたしがとったことにしておいてください。そして、お父さまだけが、わたしが決して悪い子供ではなかったことを思っていてください)
その日の昼食後の休み時間に、わたしは頭が痛むので教室の中で一人で休んでおりました。すると運動場のほうの窓に、吉川先生が洋服をかけていかれたのです。それから間もなく、鈴木先生が教室に入ってきて、その洋服のポケットの中を探りました。そして、中のものをご自分の懐の中に押し込みました。わたしは目が眩《くら》むほど驚きました。わたしのいちばん好きな、いちばん尊敬している鈴木先生が、そんなことをするのですから。どうぞ、だれにも話さないでください。鈴木先生は悪い方ではありません。きっとあの時、魔とかいうものがさしたのに相違ありませんから。
午後の授業が始まると、すぐに蟇口がなくなったという騒ぎが始まりました。すると、鈴木先生はご自分がその蟇口を持っているのに、生徒のわたしたちに拾った人はないかと訊くのです。わたしはこの世の中で、わたしがいちばん偉い方だと思っている、わたしのいちばん好きな鈴木先生がそんなことをなさるので、驚いて目が眩んで倒れてしまいました。するとみなさんは、わたしがその蟇口を持っているからだと思ったのです。どうしてわたしをあの時、裸にしてみてくれなかったのでしょうか。
それからのことは、だいたいお父さまもご存じのはずです。みなさんでわたしを責めはじめました。鈴木先生は悪い方ではないのですが、ご自分でとっていることを言いそびれてしまったものですから、どうかして隠そうとなさったに相違ありません。わたし、鈴木先生がとったのだと分かることが怖くて、わたしがとったことにしておいてもらいたかったのです。わたしはそれでも大して困りません。けれどももし鈴木先生と分かったら、世の中がどんなことになるか分かりません。
鈴木先生の下宿へまいりましてから、鈴木先生とわたしとは毎日泣いて暮らしました。鈴木先生はいろいろの事情で、ご自分がとったことを白状することがおできにならないのですけど、そのために、わたしがとったと思われるのをかわいそうに思って、先生とわたしとは話もしないで毎日泣いて暮らしたのです。
お父さま、それではお願いですから、鈴木先生がそれをとったということはだれにも話さないでください。そして、お父さまだけがわたしがとったのではないことを思っていてください。鈴木先生がとったことが分かれば大変なことになるのですけれど、わたしがとったことにしておけば、わたしは子供ですからそのまま何事もなく済むと思います。どうぞお願いします。
わたしはこれから地下のお母さまのお傍《そば》へまいります。お父さまはどうぞお身体《からだ》を大切にして、達者にお暮らしくださいませ。地の下でお母さまと一緒にお父さまの幸福を祈っております。
房枝の遺書には、だいたいそういう意味のことが書かれていた。
7
房枝の父親は房枝の遺書に頼んであったことを守って、なにも言わずに房枝の葬式を済ませた。しかし、房枝の父はだんだん我慢ができなくなっていった。死んだ房枝のことを考えると、かわいそうで涙が出てきて、どうしても鈴木女教員を責めずにはいられない気持ちになってくるのだった。だが、房枝のああいう遺書のことを思うと、父親は涙を呑みながらも、歯を食い締めて我慢をするのだった。
毎日朝から晩まで房枝のことばかり突き詰めて考えていた房枝の父親は、房枝の三七日の墓参りの済んだあとでとうとう鈴木女教員を責めに彼女の下宿を訪ねていった。
「鈴木さんは、おいでかね」
こう言って鈴木女教員の部屋に入っていった房枝の父親は、そこの机で読書をしている鈴木女教員を見るとろくろく挨拶《あいさつ》もせずに、懐から房枝の遺書を取り出した。
「これはわたしの馬鹿《ばか》な娘の遺書ですがね。まあ、読んでみてください。娘は、わたしの口からはだれにもなにも言わないでくれと書いてありますがね。しかし、あなたにだけでもこれを見ておいていただかないと、わたしはどうしても気が済まないのです。そしてこれを見てくだされば、わたしの気持ちだって分かってくださるはずだから」
父親は初め怒りを含んだ声で言いだしたのであったが、言っているうちにだんだん哀れっぽくなってきていた。
「では、ちょっと拝見いたします」
鈴木女教員はなにげなくその遺書の手紙を読みだした。しかし、読んでいるうちに彼女の顔色は青白くなってきた。手紙を持った手が小刻みにわなわなと顫えだした。そして彼女は、手紙を読み終えると同時に、わーっ! と声を立てて泣いて、そこの畳に顔を伏せてしまった。
「房枝さんがこんな気持ちでいてくれたのに……房さんが……」
鈴木女教員はそう言いながら啜《すす》り泣いた。
「過ぎ去ったことは仕方がないです。ただ、房枝の気持ちが分かってくだされば、わたしはそれで気が済むというものです」
房枝の父親は、もはや鈴木女教員を責める気にはなれなかった。父親には、自分の娘と鈴木女教員との間が、お互いがどんな感情を抱き合っていたか、いまはそれをはっきりと感ずることができるような気がするのだった。
「でも、房枝さんも、ちょっと思い違いをしている点があるのです」
しばらくしてから、鈴木女教員は言った。
「わたしが吉川先生の洋服のポケットに手を突っ込んで物を探ったのは本当ですけど、それは蟇口ではなかったのです」
「暮口でなくて、なんだったというんです」
「それはどうぞ、いま、ここでは訊かないでくださいまし。いまに何もかも分かるときがまいります。かわいそうに、この部屋は房枝さんの拷問に遭った部屋ですから、わたしもこの部屋で拷問されたいのですけど、いまはなにも訊かないでおいてくださいませ。あの蟇口をとったのはわたしでもなく、もちろん房枝さんでもなく、それがだれだったかいまに分かるときがまいります」
「いったい、だれなんです! それは?」
「それをお話しするのには、わたしが吉川先生のポケットから何をとったかということからお話ししなければ分からないのです。しかし、わたしはいまのところそれを申し上げにくいのです。わたしの口から申し上げなくても、いまに何もかも分かって、わたしも房枝さんも明るみへ出られるのです。吉川先生が近々のうちに結婚をなさるそうですけど、吉川先生が結婚をなされば、それで何もかも分かりますから」
「え? 吉川先生が結婚すれば分かるんですって? どういうわけです」
「おかしい話ですけど、吉川先生の結婚が、わたしも房枝さんもそんな人間ではなかったことを証明してくれるのでございます。それまでなにも訊かずにおいてください」
「いや、なにもいますぐ聞かしていただきたいとは申しませんがね」
「わたし、これから房枝さんのお墓へお参りに行って、通じないまでもお詫《わ》びを申してまいりたいと存じますから……」
鈴木女教員は涙を拭《ふ》きながら立ち上がった。
8
鈴木女教員はその晩、房枝と同じようにして自殺をした。房枝が帯をかけた鴨居に帯をかけて首を縊《くく》り、机の上に三本の遺書が置いてあった。
遺書の一本は自分の勤めていた小学校の校長に宛てられていた。他の二本は自分の父親と房枝の父親に宛てたものだった。
校長に宛てられた彼女の遺書は彼女の公開状ともいうべきもので、長々と書かれていた。そして自分の父親と房枝の父親に宛てた遺書の重要な部分は、いずれも校長に
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