人は、暫くの間、天神様の絵を眺めていた。
「爺様は、今、どこにいるのじゃ。」と私の母は訊いた。そして、お茶を出したり、茶菓子に乾し柿を出したりした。
「わしは、今、町の寺に泊まっているじゃ。大変親切な和尚さんで、いつまでも泊まっていろと言うから、生きているうちに、何かいいものを描きたいと思っているのじゃ。一枚、鍾馗《しょうき》を描いてやったら、大変喜んでいたがの。――ちょっと、硯《すずり》を貸してくれ。」と再度生老人は言った。
 私が硯を持って来ると、再度生老人は、墨を磨《す》りながら、また暫くの間、天神様の絵を眺めていたが、ふところから、新聞紙に包んで来た筆を出して、天神様の髯をほんのちょっとだけ直した。そして、またしばらくの間見続けて、またちょっと筆を入れて、私に渡しながら呟《つぶや》いた。
「これでいい。わしもこれで、死んだところで、別にもう心残りはないわけじゃ。」
 再度生老人は、微笑みながら茶を啜《すす》った。
 私は再度生老人が、何のために来たかがわかった。私は子供心に彼を尊敬せずにはいられなかった。

 その後、父は、その天神様の絵を表具屋にやって、表装してくれた。そして、その絵は今でも私の郷里の家に残っている。私は、帰郷のたびごとに、再度生老人を懐しく思い出すのであるが、その菅公の像というのは、今になって見ると、中学生の図画と選ぶところがないほど、ひどく下手なものである。私は、いつもこの絵を見るたびにあの哀れな老人の上に微笑を洩らさずにはいられない。
[#地から2字上げ]――昭和三年(一九二八年)『宇宙』九月号――



底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
   1984(昭和59)年4月14日初版
初出:「宇宙」
   1928(昭和3)年9月号
入力:田中敬三
校正:小林繁雄
2007年7月23日作成
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