に取っては、思うままに書くことの出来ないのは、もっと辛《つら》かったのだ。そして暮れまでの約一カ月間に、三百枚計画の長篇小説を恰度《ちょうど》半分書き上げた。機関車へ乗りたくって、北海道へ飛び出して行った時の事を書いたのだった。
 郷里には五月の末までいたが、その間に十篇の短篇小説を書いた。その中の「石油びん」と「小鳥撃」の二篇は、生田春月《いくたしゅんげつ》氏の選で、「新興文壇」という小雑誌に載った。その時の嬉しさは未だに忘れられない。そして私は、田舎《いなか》で書いた一篇の長篇と十篇の短篇を抱いて東京に出て来たが、また今村家の食客だった。

     恩恵を棄て

 私は何も書くことの出来ないのに堪えられなくなって、遂に今村家から飛び出して、通信事務員になったり裁判所の雇《やとい》になったりして勉強はしていたが、読むだけで書くことが出来なかったので、作家になることを断念しようと思った。で或る日、室生犀星《むろおさいせい》氏を訪ねて「顔を紅める頃」という短篇小説を見てもらったら、率直でいいが、もっと勉強しなければいけないと言われた。もっと読めというのであった。私はその言葉に力を得て読書に全力を注いだのであったが、遂にまた病気にかかってしまった。そして又おめおめと郷里に帰った。
 郷里では、いい物笑いの的《まと》ではあったろうけれども、私は今度こそはという意気込みで、翌年の春までには、二つの長篇小説と、八つの短篇小説を書いた。病気はまもなく癒《なお》ったので、寒い吹雪の日も、火の無いところで書いたが、インキが凍るので困った。妹が同情して、自分の小遣い銭で炭を買ってくれた事もあった。父が原稿を書くことにあまり好意を持っていなかったので、原稿紙を買ってもらうことも出来ず、「流れ行く運命」という長篇は全部、小学校の教員をしている友人から、生徒が鉛筆で答案を書いた藁《わら》半紙をもらって、そこへ毛筆で書いた。インキを買う金も無かったので。
 原稿紙だけでも欲しいだけ買いたいものだというので、私はまた東京へ出て来た。そしてまた裁判所の雇になったが、廿四円ばかりにしかならなかったので、今村の奥さんが宅に来るようにとすすめてくれるので、また図々《ずうずう》しくやっては行ったが、今度は私も考えなければならなかった。で或る日、自分が文章家として立とうと思っている事を打ち明けた。無論、みんな反対だった。で私は、労働でもやろうと考えて、今村家から出て川口町の鉄工所へと行った。
 その頃、私を今村家へ書生に入れてくれた、私の従兄弟《いとこ》の岡本という人が、東京市の工事担当員になっていたので、私は岡本さんの事務を手伝うことになった。鉄工所には一週間ぐらいしかいなかった。市役所に這入《はい》ってから、またまた芸術というものの真髄を掴《つか》みたいという野心が起こって、日大の美学科に籍を置いて、哲学とか美学とかいう様な学科に力を入れて見たが、結局、何物も掴み得ず秋になった。
 秋になると私は、また無暗《むやみ》に書きたいので役所を怠《なま》けて書き出した。随《したが》って役所の方との関係が面白く無くなり、それと同時に、工科の学校へでも通うようにして、務めの方を真面目《まじめ》にやってほしいという、上の人達の強制的な要求だったので、私は遂に、文学から遠ざからない限りに於いては、失職者とならなければならなかった。私はちょっとの間路頭に迷っていた。――文学をやることが、どうしてこんなに皆から嫌われるのだろう? と私は思った。
 恰度《ちょうど》その頃、「現代公論」という政治雑誌が文芸欄を設けることになり、記者を募集しているのを新聞広告で知り、ことによったらと思って応募して見たらうまくパスし、探訪や編輯をやらされ、翌年の春まではそっちで食べていたようなものの、結局、得るところは四つか五つかの短篇を書き得たに過ぎなかった。

     職に苦しむ

 一九二三年の五月になって、私の生活は、……内的生活も、実際生活も……全く一変した。私は従兄弟の世話で再び市役所に逆戻りすると同時に、二年の間恋し合っていた女と結婚をした。その結婚がまた親に逆《さか》らった自由結婚だったので、今までは幾らかずつの補助を受けていた親からも全く構ってもらうことが出来なくなり、私は自分の腕一本で、貧と闘いながら自分の目的への途をすすまなければいけなくなった。
 私は結婚をしてから暫《しばら》くの間は、妻と共に詩ばかり作っていた。創作の方の収穫は秋までに、短篇小説を七篇と戯曲を一篇きり書けなかった。宮地嘉六氏と内藤辰雄氏の鞭撻《べんたつ》のお蔭で、かなり力の入れどころも知ったように思ったが、八月号の「新興文学」誌上で、宮島新三郎氏から、内面描写が足り無いという評を受けてからは、私は自分の力がス
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