プリングのように撥《は》ね上がったように思った。
私は震災の時には、二人の鮮人を救おうとしたので、もう少しで殺されるところであった。――その当時のことを詳しく書いた「恐怖の巷」は、近い中《うち》に単行本で出版されると思う。――その揚句《あげく》にはまた、私は複雑した関係から市役所を馘首《くび》になり、妻と二人で浮草のように漂泊しなければならない身となった。そして遂には、寒い真冬を目がけて北国の田舎へ行かねばならなかった。私達はその時泣いた。
田舎では、私は半労働をしながら創作を続け、妻は呪《のろ》われた自分達の運命を泣き暮らした。そして翌一九二四年の早春、私が監獄部屋を背景とした長篇と、農村を描いた中篇小説とを書き上げた頃、妻は女の子を産んだ。私達の生活はなお一入《ひとしお》苦しくなって来た。だが私達は、私がさらに五篇の戯曲と三篇の短篇小説を書き上げる間、苦しい生活の中に堪えていた。
そして私は四月の上旬に、この十篇の創作を抱いて東京に出た。どこかへ売りつけようという目論見《もくろみ》ではあったが、つい気がひけて出来なかった。
労働しながらの創作
私が作家として立とうと決心した時既に、いつかはこういう生活が来るだろうと覚悟はしていたのであったから、別に狼狽《ろうばい》はしなかったが、私達は全く生活に困ってしまった。どこを探しても職は無し、原稿は売れず、殆んどどうしていいか判らなかった。そこで私は筋肉労働をやることにきめたのだが、その時はもう労働を探しに行く電車賃も無かった。しかし、今になって他の道に走ったって恵まれるものでは無い! 石に噛《かじ》りついてもやって見せるという気が私の心の中に起こった。宮地氏から借りた金で武蔵野村に行き、いよいよ筋肉労働を始めたのは五月の七日であった。初めの中は毎日、その日の十一時間の労働のことを思っては、瞼《まぶた》に泪《なみだ》を溜めて出て行った。だが私の生活はやがて精神的にも恵まれて来た。私は仕事から帰って来て創作をするのをその日の楽しみにした。昼の間、十一時間も労働をしながら思索した事が夜になって三四枚の原稿に変わった。「文章倶楽部」に載った「首を失った蜻蛉」も、この頃に、労働を始める前の、求職に苦しんでいた時の事を書いたものであった。私は毎日、仕事場では一篇の詩を作ってかえり、夜は大抵十一時頃まで小説を書
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング