みんな反対だった。で私は、労働でもやろうと考えて、今村家から出て川口町の鉄工所へと行った。
 その頃、私を今村家へ書生に入れてくれた、私の従兄弟《いとこ》の岡本という人が、東京市の工事担当員になっていたので、私は岡本さんの事務を手伝うことになった。鉄工所には一週間ぐらいしかいなかった。市役所に這入《はい》ってから、またまた芸術というものの真髄を掴《つか》みたいという野心が起こって、日大の美学科に籍を置いて、哲学とか美学とかいう様な学科に力を入れて見たが、結局、何物も掴み得ず秋になった。
 秋になると私は、また無暗《むやみ》に書きたいので役所を怠《なま》けて書き出した。随《したが》って役所の方との関係が面白く無くなり、それと同時に、工科の学校へでも通うようにして、務めの方を真面目《まじめ》にやってほしいという、上の人達の強制的な要求だったので、私は遂に、文学から遠ざからない限りに於いては、失職者とならなければならなかった。私はちょっとの間路頭に迷っていた。――文学をやることが、どうしてこんなに皆から嫌われるのだろう? と私は思った。
 恰度《ちょうど》その頃、「現代公論」という政治雑誌が文芸欄を設けることになり、記者を募集しているのを新聞広告で知り、ことによったらと思って応募して見たらうまくパスし、探訪や編輯をやらされ、翌年の春まではそっちで食べていたようなものの、結局、得るところは四つか五つかの短篇を書き得たに過ぎなかった。

     職に苦しむ

 一九二三年の五月になって、私の生活は、……内的生活も、実際生活も……全く一変した。私は従兄弟の世話で再び市役所に逆戻りすると同時に、二年の間恋し合っていた女と結婚をした。その結婚がまた親に逆《さか》らった自由結婚だったので、今までは幾らかずつの補助を受けていた親からも全く構ってもらうことが出来なくなり、私は自分の腕一本で、貧と闘いながら自分の目的への途をすすまなければいけなくなった。
 私は結婚をしてから暫《しばら》くの間は、妻と共に詩ばかり作っていた。創作の方の収穫は秋までに、短篇小説を七篇と戯曲を一篇きり書けなかった。宮地嘉六氏と内藤辰雄氏の鞭撻《べんたつ》のお蔭で、かなり力の入れどころも知ったように思ったが、八月号の「新興文学」誌上で、宮島新三郎氏から、内面描写が足り無いという評を受けてからは、私は自分の力がス
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