んべから。」
お房はそう言いながら涙に咽せて来た。
「これは、お房や、汝が嫁に行くとき、半襟の一本もと思って蔵《しま》ってだのだけとも、俺は汝に再度と会うべと思われねえから、汽車の中で飴でも買って食ってくれろ。」
お婆さんは上り框まで這って来て、お房の腕に顔を押付けたりしながら、手にしていた襤褸をお房の手に握らせた。その中には幾らかの銅貨が包まれているらしかった。
「婆さん! いいから、いいから。婆さんこそ何か買って食ったら?」
辞退してもお婆さんはきかなかった。
お房はそれを貰って、涙を拭いながら、父親に送られて戸外に出た。荷物を背負った父親は、お房を先に立てて、雪の中へどふどふと這入って行った。門口の柊《ひいらぎ》の株を右に曲って、二人の姿が見えなくなると、母親は、わあっ! と声を立てて泣き出した。
五
雪が消えると、荒れ錆れた赭土の窪地の中に、黒土の一帯が再び島のように浮き出した。黒土地帯の中央には、直ぐに掘抜井戸の、高い櫓が組まれた。春先の西風は、唸って、それに突当って行った。併し櫓の上では、長い丸竹の機条竿が、幾日も幾日もぎちぎちと動いた。
「どうだね? まだ水脈さ掘付けねえがね?」
森山は斯う言って、毎日幾度も訊きに来るのだった。一日中其処から離れないことが度度だった。自分で櫓へ上って、がちゃがちゃと、居ても立ってもいられないと云うようにして鑿竿《せんかん》を動かしたりした。
「なんだって此処は水が出ねえんだかな?」
森山は最早常軌を逸していた。水! 水! 水! 彼の全身は渇き切っていた。彼の将来にかけた明るい希望は、黒い乾燥地帯に圧付けられていた。そしてその黒くからからに乾燥した地帯が、彼の意識の全部を埋め尽そうとしているのだ。彼の心臓までも侵そうとしているのだった。
「そろそろ、今に出ますべで。出ねえわけねえんですから。」
井戸掘の人夫達も、それより、もう慰める言葉が無かった。
「あんなに一生懸命なのに、それで水が出ねえなんて、一体、法律が許して置くか置かねえが、権四郎爺に訊いて見べえかな?」
斯んなことを言って、森山が帰って行くと、井戸掘人夫達は笑った。森山に対する気の毒な気持を掻消すためだった。
併しその掘抜井戸からは、田圃の耕作が始まっても、水はとうとう出なかった。
「旦那! どうもこれじゃ出そうもごわせんな。一つ、水揚水車を拵えちゃどうでごわす? 窪地に、一っぺい水があんのでごわすから。」
「どうしても出ねえかね? どんなことをしても? 出ねえければ、それゃ、水揚げ水車でもなんでも拵えるより仕方がねえがね。娘を売ってまで小作料を持って来られちゃ、どんなことをしてだって水をあげてやらねえと……」
森山はそう言って、全く力を落として了ったように、其処へべったりと腰を据えた。
*
粘質壌土の田圃の一部が掘崩されて、其処に小さな水揚げ水車が拵えられた。それは人間の足で踏んで水を揚げるように出来ていた。
森山はその水揚げ水車に上って、雨の日でないかぎり、毎日毎日がちゃがちゃとそれを踏んだ。濁りを帯びた溜水は、鬱屈していた動物のように、どくどくと溝の中へ流れ込んで行った。それを見て、森山は、にやにやと、顔中に嬉しそうな笑いの皺を刻むのだった。
「旦那! 少し俺等もやんべかね?」
新平等が斯う言っても、森山は肯《き》かなかった。
「なあに、運動のつもりでやってんのだから。」
併し森山は、炎天が続くと、夜も寝ずにその水車を踏み続けなければならなかった。そして、焼付けるような炎天の下で居眠りをしながら水車を踏んでいることがあった。煉瓦工場からの煤煙が、その上から、ひっきりなしに降った。白い肌襦袢へ、黒い羽虫のように一つとまり二つとまり、夕方までには灰色になるのだった。
「おっ! 森山の且那はどうしたべ?」
或る激しい炎天の日の午後、田の草を取っていた平吾が、そう言って立った。
「今の先っきまで踏んでだっけがな。ほんとに?」
「居眠《ねぶかき》して、水さ落ちたんであんめえかな?」
平吾等は、田圃から上って、水揚げ水車のところへ駈けて行った。
*
森山が、疲労と睡眠不足との身体を炎暑に煎りつけられて、日射病系の急性|霍乱《かくらん》で死んでから、そこの小作人達は、代る代るに水揚げ水車を踏んだ。
併し、その翌年からは、誰もそれを踏むものが無かった。例え小作料を計算に入れないにしても、そんなことをして収穫したのでは、とても合わないからだった。都会の大工場が機械の力で拵えた沢山の物を生活に必要としている彼等が、それを買うために、そんな手数のかかる耕作をしてはいられないのだった。だから、そこは畠にするより仕方が無かった。
黒い地帯は、併し、
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