ら金側時計を引抜いて、それを覗きながら腰を上げた。
「おや! こんなどこさまで松埃が這入ってがる。ひでえには、ひでえんだな。見せえ、こら。」
 斯う言って彼は、森山の前に、自分の身体ごとその懐中時計を持って行った。時計の白い文字盤の上には、二つ三つの黒い斑点がとまっていた。
 幾ら考えても森山はあの土地を売る気にはなれなかった。田圃の底が煉瓦に変ると云うばかりでなく、そうして耕地を失った人々が、食物の生産から遠ざかって行くことがわかりきっているからだ。斯うして行ったら最後にはどうなるのだ? まさか煉瓦を食っているわけにも行くまい! 森山はそんな風に考えた。

       三

 煉瓦工場は黒煙を流し続けた。森山が土地を売らなければ、それで一時は中止するだろうと思われていたのだったが、そんなこと位で容易に怯んではいなかった。煉瓦工場では遠方にその材料の粘土を需《もと》め出した。赭《あか》い二つの触角は、森山の所有地を挟んで伸びて行った。
「煉瓦場の野郎共も、面白い野郎共だな。ほら、あの赭土を採った跡を見ろったら。煉瓦場の親父の頭の禿具合と、そっくり似たように拵えがったから。」
 部落の百姓達は丘の上から見下して斯んな風に話し合った。そして笑った。
 赭土の中に黒い地帯がひどく目立って来たのだった。額の両側から禿上って行く禿頭の、黒い髪が中央《まんなか》に残っている前額部の形だった。併しそれも長続きはしなかった。赭い触角は両側から次第に黒い地帯を抱込んで行った。そして二年の後には、黒い地帯を全くの浮島にして了った。
 黒い浮島は、それと同時に、最早完全な水田ではなかった。水田には水田が続き湿地が続いて、温い水を保つためには相互扶助的な作用がなければならないのに、黒い浮島は例えば丘の上の耕地のようなものであった。雨が降り続けば沼になり、炎天が続くと、粘質壌土は荒壁のように亀裂が立った。雑草が蔓延《はびこ》った。その根がまた固くて容易に抜けなかった。そのために稲はひどく威勢を殺《そ》がれた。のみならず、開花期間《はなどき》もやっぱり煤煙が降り続いたので、風媒花の稲は滅茶滅茶だった。穂の長さは例年の三分の二ほどしかなかった。実のつきも無論悪かった。
「且那様。どう云うわけでごわすか、俺等の田は、今年は大へん出来が悪くて、小作米の半分も出来ねえのでごわすが、来春の春蚕《はるご
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