方へ一斉に集まって来た。嘉三郎は手で髭を隠すようにした。
「あの、高橋治平さんという人の家は、どの辺だね?」
 嘉三郎は、そう酒を運んで来た茶屋女に、髭を隠すようにしながら訊いた。
「すぐこの先でがす。三軒、四軒、五軒、六軒目の家でがす。饂飩屋《うどんや》ですぐ判ります。」
「その家には、離室《はなれ》でも、別にあるのかね?」
「離室って、前に、馬車宿をしてたもんだから、そん時の待合所を奥さ引っ込んで、どうにか人が寝泊まり出来るように拵《こしら》えたのがあるにはあんのでがすけど、今のどころ、他所者《よそもの》の若夫婦が借りてるようでがす。」
「お! 一栗の嘉三郎|旦那《だんな》じゃねえかね?」
 突然、そう誰かが、薄暗い土間から立ちあがった。
「私かね? 私は古川の者ですよ。古川の繭商人《まゆあきんど》ですよ。」
 嘉三郎はぎょっとしながら、髭を隠して、声色《こわいろ》を使ってそう言った。
「併し、よく似た人だがなあ。」
 印半纏《しるしばんてん》の土工風の男は首を傾《かし》げながら言った。
 併し、嘉三郎は、そのまま何も言わずに、残っている冷酒《ひやざけ》を一息にあおると、忙《せわ》しく勘定をして、梅雨《ばいう》の暗い往来へ出て行った。

     五

 饂飩屋《うどんや》の横を、嘉三郎は、黙って奥へ這入《はい》って行った。庭に栗の木が一本あって、濡《ぬ》れ葉《ば》がばらばらと、顔に触れた。そして、栗の花の香《か》が鼻に泌《し》みた。
 ちょうどそこへ、忠太郎がどこかへ出るのらしく、立て付けの悪い板戸を開けたので、薄い光が、幅広《はばひろ》い縞になつて流れ出して来た。
「忠太郎!」
 嘉三郎はそう声をかけた。
「あれ! お父《とっ》さんだぞ。美津! お父さんが来た。起きろ。」
 忠太郎は狼狽《ろうばい》しながら言った。
「美津の病気はどういう具合だ?」
 嘉三郎はそう言いながら中へ這入った。
「お父さん!」
 美津子は寝床の上へ起き上がって凝《じ》っと父親の顔を視詰《みつ》めた。
「寝てろ! お前が病気だっていうから来て見たのだが、病気は、どんな具合だ?起きてでいいのか?」
「風邪《かぜ》を少し引いて……」
 横から忠太郎がそう言った。
「今時の風邪は永引くもんでなあ。それにしても、風邪ぐれえなら、安心だ。母親《かかあ》が心配してたぞ。」
「お父さん!」
 美津子はそう遣《や》る瀬《せ》ないように叫びながら、布団《ふとん》に顔を押し当てて、静かに歔欷《すすりな》いた。
「美津! 俺が来たのに泣いたりするなあ。泣くなら帰るで。」
 併し、嘉三郎の頬にも、涙が伝わって来ていた。
「そこに栗の木があるな? 這入《はい》って来るどき、葉の雨滴《あまだれ》が顔さかかって……」
 嘉三郎はそう言って眼のあたりを拭った。
「お父さん! 今まで黙っていて、本当に申し訳のねえことで。恩を忘れたようなごとして……」
「何を水臭いことを言うんだ。それより、何だってこんなところにいるんだ。東京さでも行けばいいじゃねえか? こんなどこで俺の恥まで晒《さら》すより、東京さでも行けばいいじゃねえか? 馬鹿な奴等だっ! 東京さでも行って立派になって来《こ》う! 忠太郎!」
「それも考えでいだのです。併し、お父さんの方に誰も稼《かせ》ぎ手《て》がいなくなるごと考えたりして……」
「馬鹿なっ! 稼がせるために忠太郎を美津の聟《むこ》にしたとなると、それこそ、世間さ顔向けが出来なくなる。何も心配しねえで、自分達だけ、立派になって来う。」
「それより、お父さんさ、酒でも買って来たら?」
 美津子は漸く顔を上げて言った。
「酒か? 酒なら呑んで来たばかりだ。酒より話でもする方がいいで。」
 嘉三郎はそう言ってとめたが、忠太郎は黙って、そそくさと出て行った。
「お父さん? 本当に悪いことして。」
 美津子は又そう言って布団に顔を当てた。
「何も悪いことなどねえで。忠太郎はあれでなかなか偉いところのある奴だ。俺も目をつけていた奴だ。こんなに近くにいてあ、何をしてんのもすぐわかってしまうから、東京さでも行って立派になって来う。この辺なら、俺の名を知っている奴もいるに違《ちげ》えねえが、お前がこんな豚小屋のようなところにいてあ、俺だって気持ちがよくねえからなあ。お前の病気が癒《なお》ったらすぐ東京の方さでも行くさ。」
「ここで旅費を稼ぎ溜めてから、お父さんにも相談して、それから東京の方さでも……」
「旅費を稼《かせ》ぎ溜めるって、何か、仕事があんのか、金なら、百円は少し欠けるけども、持って来てやった。これで、どこへでも、落ち着くんだな。」
 父親の嘉三郎はそう言って袂《たもと》からそこへ金を掴《つか》み出した。美津子はぎらぎらと濡れた眼に驚異の表情を含んで凝《じ》っと父親の顔を見た。二人ともそして何も言うことが出来なかった。
「美津! お前は少し痩せたでねえか?」
 嘉三郎は、しばらくしてから娘の手を握った。

     六

 雨の中を、嘉三郎は、朝飯前に自分の家へ帰って、炉端へ坐ったまま黙っていた。
「美津はどうしていたかね?」
 松代は不安そうにして聞いた。
「何も心配しねえでいいだ。」
 嘉三郎はそう言ったきりで、また黙《だま》りつづけた。
 そこへ、近所の百姓女が来て、上《あが》り框《がまち》へ腰をおろした。
「美津ちゃんは、近頃、どこかへ行ってますか?」
 百姓女はそう突然に聞いた。
「東京へ勉強にやりましたよ。今時は、女でも、学問がないと馬鹿にされますでなあ。兄妹《きょうだい》で行ってるんですあ。」
 嘉三郎はそう髭を稔りながら言った。そのとき、ふと嘉三郎は、昨日、頬髭《ほおひげ》の逆剃《さかぞり》をしていないのに気がついた。彼は髭を捻りながら立ち上がった。
「馬鹿に栗の花の匂いがするなあ。松や! 今年の秋は、栗を沢山採って、東京さ勉強に行っている奴等に送ってやれよ。」
 嘉三郎はそう言いながら、剃刀《かみそり》と鏡とをもって、縁側へ出て行った。
[#地から2字上げ]――昭和七年(一九三二年)『若草』八月号――



底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
   1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年11月15日公開
2005年12月20日修正
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