木の姿を想い求めずにはいられないのです。
       ○
 さらに私達のなつかしむのは、あの古典的《クラシック》な樹皮《じゅひ》です。渋い渋い感じの、そして質朴な、あの樹皮です。あの龍のような不格好《ぶかっこう》な老樹が、もし滑々《すべすべ》した肌をもっていたら、それはとても見られたものではないでしょう。それに、絵の具をぬたくったようにくっついているあのうめのきごけ[#「うめのきごけ」に傍点]が、どんなに私達の心を落ち着かし、古典的《クラシック》な感じを与えるか解《わか》らないのです。それは、うめのきごけ[#「うめのきごけ」に傍点]が、樹皮の乾燥《かんそう》している老幹《ろうかん》に宿をかりるという、科学的な、又は自然的な関係からばかりでなく、自然の美的情緒を深めるためにも、梅の老樹を灰白色《かいはくしょく》に、或いは茶褐色《ちゃかっしょく》にぬりつぶしているような気がします。
       ○
 深い香りの花です。本当に深い香りを漂《ただよ》わせる花です。それが燥《はしゃ》ぎきった空気の中を遠くまで流れて行きます。小鳥も人間も、この香りに花の在所へと誘《さそ》われるのです。鼻の感覚の鈍くなったお爺さんもです。
       ○
 梅の花の香りの流れているところは、きっと、それは人里《ひとざと》です。梅の樹のないところには、その土地に住みなれたお爺さんもいなければ、人のいないところには梅の花も咲かないのです。梅の樹はどこまでも人なつこい木です。いや人間が梅の木につきまとうのかも知れません。路に迷った旅人が、ほっと胸を撫で下ろすのも梅の香りです。それだけ梅の木は人間と密接で、人の世の古い歴史をひそめているのです。

     睡蓮

 睡蓮《すいれん》は本当に可憐《かれん》な花です。孤独の淋しさを悩む無口な少女のように哀《あわ》れっぽい花です。総《すべ》ての悩みも悲しみも、苦しみも悶《もだ》えも、胸に秘めて、ただ鬱々《うつうつ》と一人|哀《かな》しきもの思いに沈むというような可憐な表情を持つ花です。その可憐な表情こそ、睡蓮の花の私達の心を惹いてやまないところです。
       ○
 寂《さび》しい睡蓮の花は、淋しい情景の中《うち》に咲いてこそ、その哀愁的美、詩的情緒が私達の胸にぴったりうつって来るのです。巡礼乙女《じゅんれいおとめ》のお鶴《つる》や石童丸《いしどうまる》のように、親を尋ねて漂泊《さまよ》う少年少女が、村から村へと越える杉杜《すぎもり》の中の、それも鬱蒼《うっそう》と茂った森林の中の、そして岸には葦《あし》が五六本ひょろひょろと生えていて、緑《あお》い藻などが浮き、鏡のように動かない古池に、ぽっつり夢のように浮いている睡蓮の花を見たら、きっと、泣き出したに相違ありません。哀《かな》しい少女の心には、睡蓮のあの可哀想な、淋しそうで悲しそうな、あの気持ちがあまりにもぴったりはいって来るからです。
       ○
 衰滅の美[#「衰滅の美」に傍点]――という言葉があります。私達は、屋島《やしま》の戦いに敗れた平家の話や、腺病質《せんびょうしつ》の弱々しい少女が荒い世の波風にもまれている話を聞くとき、その哀れな一種の美しさにうたれます。――それが衰滅の美[#「衰滅の美」に傍点]というのでしょう。睡蓮の花はどうかすると、この衰滅の美という言葉に、ぴったりすることがあります。あまりにも可憐な、弱々しい花だからです。
 昔の栄華《えいが》を語る古城のほとり、朽ちかけた天守閣には蔦《つた》かずらが絡《から》み、崩れかけた石垣にはいっぱい苔《こけ》が生え、そのお濠《ほり》に睡蓮の花が咲いていたら、私達は知らぬ間に、涙含《なみだぐ》ましい気持ちでいっぱいになっているに相違ありません。
       ○
 緑滴《みどりしたた》るころ、東京近郊では、井之頭《いのがしら》の池に、あの静かな、原始林のような森林に囲まれ、錆《さび》のついた鏡のような池の面《おもて》に、白い夢のように睡蓮の花が浮いています。そのまわりに、小さい水鳥が浮いたり沈んだりして遊んでいるのを見ることもあります。
[#地から2字上げ]――昭和六年(一九三一年)『新月』四、五、六月号――



底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
   1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年9月24日公開
2005年12月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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