汽笛
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)柴田貞吉《しばたていきち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)線路|伝《づた》いに

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。
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 改札孫の柴田貞吉《しばたていきち》は一昼夜の勤務から解かれて交代の者に鋏《はさみ》を渡した。朝の八時だった。彼は線路|伝《づた》いに信号所の横を自宅へ急いだ。
「おーい! 馬鹿に急いで帰るなあ」
 信号所の中から声をかけたのは彼と同じ囲いの官舎にいる西村《にしむら》だった。彼は振り返って微笑《ほほえ》んだ。突然で言葉が出なかったのだ。
「細君はどうなんだ? 幾分かはいいのか?」
「同じことですね。起きてはいますけれど……」
「起きてるのなら、散歩にでも連れて出てみるんだな。あんまり家の中にばかりいるのも、身体のためじゃないぜ」
 西村はそう言いながら転轍機《てんてつき》の傍《そば》へ近付いて行った。
「今夜は七時の交代でしょう? 早く帰って闘球《とうきゅう》をしに来ませんか? 西村さん」
 貞吉は、頭の中で、自身の若い細君をどうして悦《よろこ》ばせたらいいかと、そればかり考えているのだった。
「行くがね。しかし君のところの細君は闘球盤なんか絶対に駄目だよ。あんな屈《こご》んで胸を圧迫するようなことは全然いけないね。まあ今日は昼のうちに散歩に連れて行きたまえ。悪いことは言わないから」
 西村はまた次の信号に掛からねばならなかった。
「え。連れて行くつもりなんです」
 貞吉は子供らしい動作で軌条の上を歩き出した。足を踏み外さないようにと用心する動作は過去の記憶を蘇《よみがえ》らすのだった。
 ――今の妻の家の前を、彼女が窓から観《み》ていることを意識しながら、口笛を吹き鳴らし、綱渡りの格好で軌条の上を渡り歩いたころを。その窓からは、あの秋子《あきこ》の蒼白《あおじろ》い顔ばかりでなく、父親の吉川《よしかわ》機関手が、真っ黒い髯面《かお》を覗《のぞ》けていることがあったことを。

 柴田貞吉は秋子を連れて官舎を出て行った。
 鉄道線路の高土堤《たかどて》が町|端《はず》れの畑の中を走
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