郷愁
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)襲《おそ》われる

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五十|燭《しょく》

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(例)[#ここから2字下げ]
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 私はよく、ホームシックに襲《おそ》われる少年であった。
 八百屋の店頭に、水色のキャベツが積まれ、赤いトマトオが並べられ、雪のように白い夏大根が飾られる頃になると、私のホームシックは尚《なお》一入《ひとしお》烈しくなるばかりであった。
 そんなとき、私は憂鬱《ゆううつ》な心を抱いて、街上の撒水《うちみず》が淡い灯を映した宵《よい》の街々を、微《かす》かな風鈴《ふうりん》の音をききながら、よくふらふらと逍遙《さまよい》あるいたものであった。
 店の上に吊《つる》された、五十|燭《しょく》ぐらいの電燈が、蒼白《あおじろ》い、そしてみずみずしい光をふりまき、その光に濡れそぼっている果物屋の店や、八百屋の店は、ますます私の心を、憂鬱に、感傷的にしてしまうばかりであった。併し私は、馬鹿馬鹿しいほど淋しく、物哀れな気分になりながらも、こうして八百屋の店や果物屋の店頭を覗いて歩くのが好きだった。
 そうして逍遙《さまよ》うた揚句《あげく》には、屹度《きっと》上野の停車場《ていしゃば》へやって行ったものであった。
 停車場の待合室にはどこの停車場にも掛かっているような、全国の、国有鉄道の地図が掲《かか》げられていた。
 その地図の下に立ってみすぼらしい身装《みなり》の青年が、その地図の上の距離を計ったり、凝《じ》っと凝視《みつめ》ていたりして、淋しい表情で帰って行くのを、私は幾度《いくど》見かけたか知れなかった。
 私はそういう人々を、殆んど毎晩のように見かけた。なかには、眼を潤《うる》ませて帰る青年もあったし、ちかちかと睫毛《まつげ》を光らせて戻る少年もあった。
 併し私は、そういう人々を、ただ単に、見たとばかり言い得ないような気がする。
 その人々の姿こそ、当時の私の姿ではなかったろうか? 歩いてでも郷里にかえりたかった。当時の私の心ではなかったろうか?

 或る夜のことであった。私は停車場で、偶然一人の友人と落ち合った。彼は非常に沈んでいたようであった。
「誰か送って来たの? それとも誰か来るの?」と私は訊《き》
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