狂馬
佐左木俊郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)炭坑の坑《あな》は
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二三匹|繋《つな》がれた。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)手綱《たづな》[#「手綱」は底本では「手網」]
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炭坑の坑《あな》は二つに区別されている。竪坑《たてこう》。斜坑《はすこう》。――地上から地下へ垂直に、井戸のように通うているのが竪坑で、斜坑は、地上から地下へ、勾配《こうばい》になって這入《はい》って行くのだから樹木に掩《おお》われた薄暗い坂路《さかみち》を連想《れんそう》させる。
斜坑は、動物の通路を第一の目的として掘られたものであろう。炭坑に蒸気機関や電動機の採用されていなかったころ、人間の肩や背の他には、馬が一切の労働力を供給していたのだから。炭坑に機械力が這入って来てから、馬は、次第に廃《すた》れて行ったのであるが、古くからの炭坑へ行くと、今でも、馬の残っているところがある。
青《あお》!(その馬は若い時からそう呼びならされていた。)
青は鉱山主の温情主義から、坑《あな》の中に養われていた。十何年間を、地の底の暗闇《くらやみ》の中に働いていたのであったが、最早すっかり老衰してしまって、歩くことさえも自由ではなくなっていた。併し、青は、坑内に働いている誰からも愛されていた。惨《みじ》めな老人を労《いたわ》るようにして労られていた。
「青! なんとしたことだい。青! 少し元気出せよ。ほう! ほう! ほら!」
坑夫達はそんな風に言って、そこを通りかかる度毎《たびごと》に、青の鼻先へ触《さわ》ってやるのだった。併し青は、黒い鼻先をほんの微《かす》かに蠢《うご》めかすだけであった。感覚の一切を、過去の生活の中へ置き忘れて来てしまったようにして、森の中の沼のような暗い眼を向けているのだった。その眼が果たして見えるのか見えないのか、ただじっと、暗い空間の一点に向けて据《す》えているのだった。
「青! 本当にお前はどうしたのよ。おう? 元気がなくなったなあ。青! ああ、俺の飯が残っているから、お前に少しやろう。」
併し青は、坑夫達がそうしてくれる飯も、ほんの少しきり食わなかった。それも、一度口の中に入れたものを、思い出したようにしては噛《か》み、またしばらくじっとしていて、思い出したようにしては、また噛むのだった。
青は本当に生きているのか死んでいるのかわからなかった。それは襤褸《ぼろ》で拵《こしら》えた馬のようでもあった。硝子《ガラス》玉の眼を嵌《は》め込んだ剥製《はくせい》の馬のようでもあった。
「俺達も、年を取れば、青のようになるんだろうなあ。青! 俺達も今にこの坑《あな》の中でお前のようになるんだよ。お前よりももっともっと惨めになるかも知んねえ。」
「それはそうよ。人間も馬も変わりがあるもんじゃねえ。なあ青!」
坑夫達はいつもそんなことを言うのであった。
*
青が養われている場所には、夜になると、若い働き盛りの馬が二三匹|繋《つな》がれた。
若い馬は、ぴしりっぴしりっと尾を振った。虻《あぶ》がいるのでも蚊がいるのでもない。ただぴしりっぴしりっと無暗《むやみ》に尾を振った。人が通りかかると、首を高く持ち上げて(ほほほ!)と嘶《いなな》いた。脚《あし》を上げては石炭の破片《かけら》を踏み砕《くだ》いた。何をやっても、がつがつとそれを喰った。明るい世界から引き込まれて来たばかりの馬は、全身が感覚で、全身が力だった。
青は、この若い馬を見ることで、過去の記憶の中に置き忘れて来た感覚の幾分かを、そこに取り戻して来るような様子だった。そんなとき、青の耳は、微《かす》かながらに動き出すのだった。その暗い眼は、空間のどこかにただ向けられているのではなく、何かを視詰《みつ》め出しているようだった。
*
炭坑にはストライキが始まっていた。坑内に働いている人達が、青のようになりたくないための運動であった。坑内からは、総ての労働者が、地上に引き上げて行くことになった。若い働き盛りの馬達は、その前に、鉱山主によって、坑の外へ引き出されていた。
併しどうしたのか、青だけは、そのままそこに残されていた。
坑夫達は、今、坑の中から引き上げて行きながら、青の前に通りかかって、足を停《と》めたのだった。
「青! お前だって、生きているんだもの、何も食わずに、何も飲まずに、幾日も生きているってわけには行くめえ。」
「いくら馬だからって、随分ひどいことをするもんだなあ。これが人間のように口のきけるもんなら、黙ってはいめえ。なあ。」
「おい! 引き出して行ってやろうじゃないか?」
誰かが力をこめて言った。
坑夫の一
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